国境炭素調整メカニズム(CBAM)が国際水素貿易と国内産業に与える影響:政策担当者が考慮すべき論点
導入
エネルギー転換の潮流が加速する中、水素は脱炭素化の鍵を握るエネルギーキャリアとして世界的に注目されています。その一方で、水素の製造、輸送、利用には多岐にわたる課題が存在し、政策担当者は国内外の動向を注視しながら、効果的な政策を立案・実行していく必要があります。特に近年、炭素リーケージ(国内の厳しい環境規制を避けるために生産拠点を海外に移転すること)を防ぎ、地球規模での脱炭素努力を促進するための国際的な政策手段として、国境炭素調整メカニズム(Carbon Border Adjustment Mechanism: CBAM)が欧州連合(EU)で導入されつつあります。
CBAMは、特定の輸入品に対して、EU域内の生産者と同等の炭素価格負担を課すことで、公正な競争条件を確保し、EUの気候目標達成を支援することを目的としています。このメカニズムは、エネルギー多消費産業やその製品に影響を与えるだけでなく、それらの製造プロセスで利用される水素のサプライチェーンにも大きな影響を与える可能性があります。本稿では、このCBAMが国際水素貿易の構造や国内水素関連産業の競争力にどのような影響を与えうるかを分析し、日本の政策担当者が今後の政策立案において考慮すべき主要な論点について考察します。
CBAMの概要と水素への適用
EUのCBAMは、段階的に導入が進められており、2023年10月1日から移行期間が開始されています。最終的には、特定の輸入品の製造過程で排出された温室効果ガスに対して、EU排出量取引制度(EU ETS)の価格に相当する炭素価格の支払いを求められる仕組みです。対象品目は当初、セメント、肥料、鉄鋼、アルミニウム、電力などが中心でしたが、その後の改定により、水素も対象品目に追加されました。
水素がCBAMの対象となったことは、国際的な水素サプライチェーンにとって極めて重要な意味を持ちます。輸入される水素や、水素を製造工程で利用して作られた製品(鉄鋼や肥料など)は、その製造過程における温室効果ガス排出量に基づいて炭素価格が賦課される可能性があります。これにより、製造方法による排出量の違いが、そのまま輸入時のコスト差に直結することになります。
CBAMが国際水素貿易に与える影響
CBAMの導入は、国際的な水素貿易の構造に複数の影響を与えると考えられます。
1. 低炭素水素の競争力向上
CBAMの仕組み下では、製造過程での排出量が少ない、いわゆる低炭素水素(グリーン水素や、CCUS付きブルー水素など)の競争力が相対的に向上します。高炭素な製造方法(例: 天然ガスを主原料とし、CO2を回収・貯留しないグレー水素)による水素は、CBAMに基づく炭素価格負担が大きくなるため、輸入市場での価格競争において不利になります。これは、EU市場へ水素またはその関連製品を輸出しようとする国々に対し、低炭素な水素製造への投資を促す強力なインセンティブとなり得ます。
2. サプライヤー国の選択と地理的優位性
CBAMは、水素の供給源となる国の選択にも影響を与える可能性があります。再生可能エネルギー資源が豊富で、安価かつクリーンな電力を用いてグリーン水素を製造できる国は、EU市場への輸出において地理的な優位性を獲得する可能性があります。また、CCUS技術の導入が進んでいる国も、ブルー水素の供給源として競争力を維持・向上させることが考えられます。サプライチェーンの構築において、単なる製造コストだけでなく、その製造過程での排出量、ひいてはCBAMの負担額が重要な検討要素となるでしょう。
3. トレーサビリティと認証システムの重要性の高まり
CBAMが正確に機能するためには、輸入される水素または関連製品の製造過程における温室効果ガス排出量を正確に算定し、証明する仕組みが不可欠です。これにより、国際的な水素のトレーサビリティ(追跡可能性)や低炭素性認証システムの重要性が飛躍的に高まります。国際的に認められる共通の算定方法や認証基準の確立に向けた議論が加速することが予想され、これらの基準策定プロセスへの関与が各国の水素戦略において重要となります。
CBAMが国内水素関連産業に与える影響
EUのCBAMは、直接的にはEUへの輸出品に適用されますが、日本の国内水素関連産業にも間接的、あるいは将来的に直接的な影響を与える可能性があります。
1. 国内製造業における水素利用インセンティブの変化
CBAM対象品目(鉄鋼、肥料、アルミニウムなど)を製造し、EUへ輸出している日本の産業は、その製品の製造過程で利用する水素の低炭素性がEUにおけるCBAM負担額に影響することになります。これにより、国内でこれらの製品を製造する企業において、低炭素な水素(またはそれを利用した製造プロセス)への切り替えに向けた投資インセンティブが高まる可能性があります。これは国内の低炭素水素需要を創出する要因となり得ます。
2. 国内低炭素水素認証・評価システムの必要性
EUへの輸出品にCBAMが適用される場合、輸出品に含まれる炭素量、ひいてはその製造に用いられた水素の低炭素性を証明する必要があります。このため、日本国内においても、国際的に通用する低炭素水素の評価・認証システムを確立することが急務となります。国内の認証システムが国際基準と乖離している場合、輸出企業にとって不利益となる可能性があるため、国際的な議論との連携が不可欠です。
3. 国内水素関連産業の国際競争力への影響
CBAMは、特定の産業分野における低炭素化競争を激化させる側面も持ちます。日本の水素関連産業(製造技術、輸送・貯蔵技術、利用技術、関連プラントエンジニアリングなど)は、この国際的な低炭素化の動きに対応し、技術開発やコスト競争力強化を図る必要があります。EU市場へのアクセス条件の変化は、日本の産業の国際展開戦略にも影響を与えるため、戦略的な対応が求められます。また、EU以外の国々が同様のメカニズムを導入する可能性も考慮し、グローバルな視点での競争力強化が重要となります。
4. 国内政策との整合性
日本国内でも、GXリーグにおける炭素価格メカニズムの検討など、炭素価格付けに関する議論が進められています。これらの国内政策と、EUのCBAMのような国際的な炭素価格・貿易政策との間で整合性を図ることは、国内産業の予見可能性を高め、円滑なエネルギー転換を促進する上で極めて重要です。国内における低炭素水素の定義、支援策、炭素価格設定などが、国際的な動向とどのように整合するかを慎重に検討する必要があります。
政策担当者が考慮すべき論点
上記の分析を踏まえ、日本の政策担当者がCBAMをはじめとする国際的な炭素価格・貿易政策の動向に対し、今後の水素政策立案において考慮すべき主要な論点を以下に示します。
- 国際動向の継続的なモニタリングと分析: EUのCBAMの詳細な運用規則、対象品目の拡大可能性、賦課方法の進化などを継続的に追跡し、その日本への影響を定量的に分析する体制を強化すること。EU以外の主要国(米国、英国、カナダなど)における同様のメカニズム導入の動きも注視すること。
- 国際的な低炭素水素基準策定への積極的な参画: 国際エネルギー機関(IEA)や水素評議会(Hydrogen Council)などの国際フォーラム、あるいは二国間・多国間の枠組みにおける水素の低炭素性評価・認証基準に関する議論に積極的に参画し、日本の立場や技術的知見を反映させること。
- 国内低炭素水素認証・評価システムの構築と国際整合性: 国際基準を踏まえつつ、国内の実情に即した低炭素水素の評価・認証システムを早期に構築すること。特に、GXリーグなど国内の炭素価格メカニズムや認証制度との連携を図り、国内外での二重計上や不整合が生じないよう配慮すること。
- 国内産業の国際競争力強化支援: CBAM導入によって影響を受ける国内製造業に対し、低炭素水素導入へのインセンティブを提供すること。また、水素関連技術やサービスの開発・普及を支援し、日本の水素関連産業が国際市場で競争力を維持・向上できるよう、研究開発支援、実証事業、サプライチェーン構築支援などを戦略的に進めること。
- 二国間・多国間協力の推進: EUを含む主要国との間で、水素の貿易に関するルール、認証、トレーサビリティなどについて情報交換や協調を進めること。特に、日本が強みを持つ水素関連技術や、国際サプライチェーン構築に関する知見を共有し、国際的な連携を深めること。
- 国内政策パッケージの再評価: 水素基本戦略、エネルギー基本計画、GX推進戦略など、国内の主要なエネルギー・環境・産業政策が、国際的な炭素価格・貿易政策の動向と整合しているか定期的に評価し、必要に応じて見直しを行うこと。特に、国内の水素製造・利用促進策が、国際市場での競争力向上に資するかどうかを検討すること。
結論
EUの国境炭素調整メカニズム(CBAM)は、国際的な炭素価格競争を促し、世界のエネルギー貿易構造に大きな影響を与える可能性のある重要な政策手段です。水素がその対象品目に追加されたことは、国際水素貿易のあり方、そして各国の水素関連産業の競争力に無視できない影響を与えることを示唆しています。
日本の政策担当者は、単にCBAMのルールを理解するだけでなく、それが国際的な低炭素水素市場の形成、サプライチェーンの再構築、そして国内産業の競争環境にどのように影響するかを深く分析する必要があります。国際的な基準策定への積極的な関与、国内認証システムの整備、そして国際競争力強化に向けた産業支援策の検討は喫緊の課題と言えます。国際的な炭素価格・貿易政策の動向を戦略的に捉え、国内のエネルギー・産業政策との整合性を図ることで、日本の水素経済実現に向けた道のりをより確実なものとすることができると考えられます。