燃料電池自動車から船舶・鉄道へ:多様なモビリティにおける水素利用拡大を促す政策アプローチ
はじめに
エネルギー転換、特に交通部門の脱炭素化において、水素はその有効なエネルギーキャリアとして世界的に注目されています。燃料電池自動車(FCV)に代表されるように、水素は走行中にCO2を排出しないゼロエミッション燃料としての可能性を秘めており、その適用範囲は乗用車だけでなく、バス、トラック、鉄道、船舶、さらには航空機へと広がりつつあります。
交通部門はエネルギー消費量が多く、排出削減が喫緊の課題である分野です。バッテリー式電動化が適さない、または限界がある用途(長距離輸送、高出力が必要な車両、大型モビリティなど)において、水素は有望な選択肢となります。多様なモビリティ分野への水素導入を加速するためには、技術開発の進展と並行して、効果的な政策の設計と実行が不可欠です。
本稿では、燃料電池自動車から一歩進み、船舶や鉄道など多様なモビリティにおける水素利用拡大に向けた国内外の政策動向を概観し、その導入を促進するための政策課題と今後の展望について考察します。
モビリティ分野における水素利用拡大の現状と課題
モビリティ分野における水素利用は、初期段階ではFCV、特に乗用車やバスを中心に進められてきました。しかし、普及には車両価格の高さ、水素ステーションの整備遅れ、水素供給コストといった課題が依然として存在します。
大型モビリティにおいては、船舶、鉄道、トラック、航空機といった各モードで水素燃料や燃料電池技術の適用に向けた実証や開発が進んでいます。
- 船舶: 特に内航船や港湾作業船、フェリーなどで水素燃料(液体水素、圧縮水素、アンモニアなど)や燃料電池の導入が検討されています。航続距離や積載量の制約が課題となる一方、IMO(国際海事機関)における排出規制強化の動きが導入を後押ししています。
- 鉄道: 非電化区間におけるディーゼル車両の代替として、燃料電池を搭載した車両の開発・導入が進んでいます。既存の電化インフラが不要なため、コスト削減の可能性が指摘されています。
- トラック・バス: FCVトラックやバスは、EVトラック・バスと比較して航続距離が長く、短時間での燃料充填が可能という利点があります。長距離輸送や頻繁な運行が必要な用途での期待が高まっています。
- 航空機: 液体水素を直接燃料とする方式や、合成燃料(SAF)の製造に水素を利用する方式が研究されていますが、技術的なハードルやインフラ整備の課題は大きいです。
これらの多様なモビリティへの水素導入には、共通の課題として、 * 高価な車両・システムのコスト低減 * 水素供給インフラ(充填・貯蔵設備)の整備 * 安全に関する技術基準・規制の整備 * 水素供給コストの低減 * サプライチェーン全体の構築 などが挙げられます。各モビリティの特性に応じた技術開発やインフラ要求に対応した政策アプローチが求められます。
各国の政策アプローチ:多様なモビリティへの導入促進策
主要各国は、モビリティ分野における水素利用拡大に向け、様々な政策を導入しています。そのアプローチは、対象とするモビリティの種類や国の地理的・産業的特性によって異なります。
- 欧州: 欧州各国は、交通部門の脱炭素化を重視しており、包括的な政策パッケージを展開しています。
- ドイツ: 水素戦略において交通部門を主要ターゲットの一つとし、FCV購入補助金、水素ステーション整備への補助金を提供しています。鉄道分野では燃料電池列車の導入が進んでおり、海事分野でも研究開発や実証プロジェクトへの支援が見られます。
- ノルウェー: 海事国家として、船舶分野における水素利用に注力しています。航路での実証プロジェクトや、ゼロエミッション船開発への助成を行っています。
- フランス: 地域交通における水素利用(バス、鉄道)に積極的であり、インフラ整備と車両導入への支援を組み合わせて実施しています。
- 北米:
- 米国: 連邦政府および州政府(特にカリフォルニア州)が、トラックやバスといった商用車への水素利用促進に重点を置いています。インフラ投資法に基づく水素ハブプログラムでは、交通部門での活用が重要な要素とされています。海事分野でも環境規制強化と連動した動きがあります。
- カナダ: 国土が広大なため、トラック輸送における水素利用への関心が高いです。インフラ整備への支援策を検討しています。
- アジア:
- 日本: FCV乗用車、バス、トラックの開発・普及を初期から推進しており、水素ステーション整備への補助金や規制緩和を進めてきました。近年では、船舶分野(水素燃料船)や鉄道分野(燃料電池試験車両)での技術開発・実証にも取り組んでいます。
- 韓国: 水素経済への転換を国家戦略とし、FCV普及目標を高く設定しています。バスやトラックなどの商用車への支援も強化しており、関連インフラ整備も急ピッチで進められています。
- 中国: 商用車、特にバスやトラックへの水素利用に注力しており、地方政府による手厚い補助金が導入を牽引しています。特定の地域を水素モビリティのモデル地域として指定する取り組みも見られます。
これらの事例から、多様なモビリティへの水素導入政策は、補助金や税制優遇による車両導入支援、インフラ整備への公的資金投入、技術開発支援、そして安全規制や技術標準の策定といった要素を組み合わせていることがわかります。また、公共交通や特定の産業(海運、物流など)に焦点を当て、初期需要を創出するアプローチが多く採用されています。
政策設計における論点と今後の展望
多様なモビリティ分野における水素利用拡大を効果的に進めるためには、いくつかの重要な政策論点があります。
- インフラ整備と車両普及の同期: 水素モビリティの導入は、「鶏が先か卵が先か」の課題を伴います。水素が供給されなければ車両は普及せず、車両がなければインフラ投資が進みません。政策的には、初期段階で供給側と需要側の双方にインセンティブを提供し、互いの進展を補完し合う設計が求められます。特定のルートや地域(例:物流拠点、港湾、非電化鉄道路線など)に焦点を当てた集中的なインフラ整備が有効な場合があります。
- 多様なモビリティニーズへの対応: 乗用車、トラック、バス、船舶、鉄道、航空機では、必要な水素の量、供給頻度、貯蔵形態、充填時間、航続距離といった要求が大きく異なります。単一の政策パッケージではなく、各モビリティモードの特性と課題に応じたカスタマイズされた支援策や規制改革が必要です。例えば、船舶には港湾でのバンカリング(燃料供給)インフラ、鉄道には沿線での供給設備など、固有のインフラ要件に対応する必要があります。
- 水素供給コストの低減との連携: モビリティ分野における水素利用が拡大するためには、燃料コストの競争力が重要です。政策的には、グリーン水素製造コストの低減に向けた支援、広域的な水素サプライチェーンの構築、そして製造・輸送・貯蔵・充填にかかるコスト全体を削減する取り組みと、モビリティ導入支援策を連携させることが不可欠です。
- 国際的な政策協調と標準化: 特に船舶や航空機といった国際的なモビリティにおいては、燃料や技術の国際標準化、安全規制の国際的な整合性が重要となります。国際海事機関(IMO)や国際民間航空機関(ICAO)といった国際機関における議論に積極的に参画し、日本の技術や知見を反映させるとともに、国際的なルールメイキングに貢献する政策が求められます。
- 安全性確保と社会受容: 水素はその特性上、適切な取り扱いと安全対策が必要です。モビリティ分野における安全基準や規制を明確に定め、ステークホルダーへの丁寧な情報提供やトレーニングを通じて、社会的な理解と受容を高める取り組みも政策の一部として重要です。
結論
モビリティ分野における水素利用拡大は、交通部門の脱炭素化に向けた重要な戦略の一つであり、FCVに加えて船舶、鉄道、トラックといった多様なモードへの適用が進んでいます。各国は、車両購入・開発支援、インフラ整備補助、規制改革などを組み合わせた政策アプローチを展開し、導入を後押ししています。
日本の政策担当者としては、これらの国際的な動向を参考にしつつ、国内の地理的条件や産業構造を踏まえた上で、インフラと車両普及の同期、多様なモビリティニーズへのきめ細やかな対応、水素供給コスト低減との連携、国際標準化戦略、そして安全性確保と社会受容の促進といった論点を考慮した政策設計を進めることが重要と考えられます。多様なモビリティにおける水素導入は、新たな産業創出や地域活性化にも貢献する可能性があり、戦略的な政策推進が期待されます。