水素経済拡大を加速する金融・投資動向:政策担当者が考慮すべき論点
水素エネルギーの導入拡大、ひいては水素経済の実現には、巨額の設備投資やインフラ整備が必要となります。これらの投資は、公共部門による支援だけでなく、民間資金の積極的な参画が不可欠です。したがって、政策担当者が水素関連政策を立案・実行するにあたっては、金融機関や投資家がどのような視点で水素プロジェクトを評価し、どのような要因が投資判断に影響を与えるのかを深く理解することが極めて重要になります。
本稿では、水素経済拡大を加速するために必要な金融・投資の動向と、政策担当者が民間資金を円滑に呼び込むために考慮すべき論点について、金融市場の視点から分析を加えます。
世界の水素プロジェクトへの投資動向の現状
国際エネルギー機関(IEA)やブルームバーグNEFなどのレポートによると、世界のクリーン水素プロジェクトへの投資は年々増加傾向にあります。特に、グリーン水素(再生可能エネルギー由来の電力を用いた水電解による水素製造)関連プロジェクトへの関心が高まっています。しかし、公表されているパイプライン案件全体の投資額と比較すると、最終投資決定(FID: Final Investment Decision)に至ったプロジェクトの比率はまだ低い状況にあります。これは、多くのプロジェクトがまだ初期段階にあり、様々なリスク評価や資金調達の課題に直面していることを示唆しています。
投資を主導するアクターは多様化しています。政府系開発金融機関や各国政府による初期段階の支援に加え、エネルギー大手企業、化学メーカー、産業ガスメーカーなどが事業主体として投資を行っています。近年では、インフラファンドや年金基金などの機関投資家も、長期的な収益性が見込める大規模インフラプロジェクトとして水素関連事業への関心を高めています。また、スタートアップ企業を中心に、新たな技術開発を担う企業へのベンチャーキャピタルからの投資も見られます。
水素プロジェクト投資における金融機関・投資家の視点
金融機関や投資家が水素プロジェクトへの投資を検討する際に重視する要素は多岐にわたりますが、主なものとして以下が挙げられます。
- 技術リスク: 新しい技術や実証段階の技術に対する不確実性。大規模化や商業運転における実績の有無などが評価されます。
- 市場リスク: 水素の需要家が十分に確保されているか、将来的な需要の伸びが見込めるかといった点。特に、長期のオフテイク契約(購入契約)の存在は、収益の予見性を高める上で極めて重要です。
- 政策リスク: 各国の水素戦略や支援策の安定性、予見性。政策の変更リスクや、国際的な政策協調の動向なども考慮されます。
- 規制リスク: 水素の製造、輸送、貯蔵、利用に関する法規制や安全基準が整備されているか、変更の可能性はどの程度かといった点。
- 価格競争力: 将来的に、既存の化石燃料由来のエネルギーや他の脱炭素化手段(例: 電化)と比較して、水素が競争力のある価格で供給できるかの見通し。
- プロジェクト体制: 事業を推進するコンソーシアムや事業者の実績、専門性、財務健全性。
- ESG評価: 環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の観点からの評価。特に、グリーン水素プロジェクトにおいては、製造プロセスにおける排出削減効果やサプライチェーン全体の持続可能性が問われます。
多くの水素プロジェクト、特に大規模なインフラを伴うものや新しい技術を用いるものは、初期投資が大きく、長期の事業期間と収益回収期間を要します。このため、金融機関や投資家は、プロジェクトファイナンスの手法を用いることが多く、プロジェクトが生み出すキャッシュフローを返済原資とするため、上記のようなリスクを詳細に評価し、その低減策が十分に講じられているかを確認します。
政策が金融・投資に与える影響
政策は、水素プロジェクトへの投資を大きく左右する決定的な要因となり得ます。政策による主な投資促進要因には、以下のようなものがあります。
- 直接的な財政支援: 補助金、税制優遇、低利融資、債務保証などは、プロジェクトの初期投資負担を軽減し、内部収益率(IRR)を改善します。
- 需要創出支援: 政策的な利用義務付け(例: 産業部門での一定比率使用義務)や、需要家へのインセンティブ付与は、水素市場の形成を後押しし、オフテイクリスクを低減します。
- カーボン価格メカニズム: 炭素税や排出量取引制度の導入・強化は、化石燃料利用のコストを相対的に高め、水素などの低炭素ソリューションの価格競争力を向上させます。
- 規制・標準化: 水素関連の技術基準、安全規制、国際標準化の推進は、技術リスクや規制リスクを低減し、大規模な投資を可能にします。
- 予見性と安定性: 長期的な国家戦略や支援策の方向性が明確であり、予見性が高いことは、投資家が安心して長期投資を判断するための基盤となります。
一方で、政策の不確実性や頻繁な変更、複雑な許認可プロセス、異なる規制当局間での連携不足などは、投資を阻害する要因となります。また、インフラ整備(パイプライン、貯蔵施設、港湾ターミナルなど)に関する政策の遅れは、サプライチェーン全体の構築を遅らせ、プロジェクトのリスクを高めます。
政策担当者が考慮すべき論点
民間資金を水素経済拡大に効果的に活用するためには、政策担当者は以下の論点を深く考慮する必要があります。
- リスク分担メカニズムの設計: 水素プロジェクトの初期段階における高いリスク(特に技術リスクや市場リスク)を、公共部門と民間部門でどのように適切に分担するか。政府による初期投資リスクの引き受けや、低炭素水素製造に対する価格差補助(CfD: Contracts for Difference)のような手法は、投資家にとってのリスクを低減し、FIDを促進する効果が期待できます。
- 政策の予見性と安定性の確保: 長期的な目標や支援策の道筋を明確に示し、政策の一貫性を維持すること。法制化や長期計画への位置づけは、政策の予見性を高める上で有効です。
- 国際連携の強化: 水素の国際貿易が不可欠となる中で、国際的な認証制度の相互承認や、供給国・需要国間での政策協調は、クロスボーダー投資を促進します。
- グリーンファイナンスとの連携強化: サステナブルファイナンス市場における水素関連投資の位置づけを明確にし、グリーンボンドなどの資金調達手段を活用しやすい環境を整備すること。水素プロジェクトのLCA評価に基づいた環境性能認証などを推進し、ESG投資を呼び込むことも有効です。
- 情報提供と透明性の向上: 市場データ、技術動向、政策に関する正確かつタイムリーな情報を提供し、関係者間の情報格差を縮小すること。
結論
水素経済の実現には、政策による強力な後押しに加え、民間資金の積極的な活用が不可欠です。金融機関や投資家は、水素プロジェクトの多様なリスクを慎重に評価しており、特に政策の予見性、安定性、そしてリスク分担メカニズムの適切性が投資判断に大きく影響を与えます。
政策担当者は、技術開発やインフラ整備への支援と並行して、金融市場のメカニズムを理解し、民間資金を円滑に呼び込むための政策設計を行う必要があります。リスク分担の仕組み構築、政策の予見性向上、国際連携の強化、グリーンファイナンスとの連携、情報提供の透明性向上といった論点を踏まえ、実効性のある政策を推進していくことが、水素経済拡大を加速させる鍵となると考えられます。