化学品原料・合成燃料製造における水素利用拡大:政策的課題と国際動向
はじめに:多様化する水素の用途と政策の役割
カーボンニュートラル社会の実現に向けて、水素は従来のエネルギー利用に加え、多様な産業分野での活用が期待されています。特に、化石燃料由来の原料やエネルギーを多用する化学品製造や合成燃料製造分野において、水素の導入はサプライチェーン全体の脱炭素化を加速させる重要な鍵となります。これらの分野における水素利用拡大には、技術的課題の克服だけでなく、政策による強力な後押しが不可欠です。
本稿では、化学品原料および合成燃料製造における水素利用の現状と可能性、関連技術の動向、そしてこれらの用途拡大に向けた政策的な課題や国際的な動向について分析し、政策立案の観点からの示唆を提供いたします。
化学品原料としての水素利用の可能性と課題
化学産業では、アンモニア、メタノール、ポリエチレンなどの製造において、水素が重要な原料として広く使用されています。しかし、現状ではこれらの製造に用いられる水素の多くは、天然ガスや石炭を原料としたグレー水素であり、製造過程で大量のCO2を排出しています。化学品製造分野での脱炭素化を進めるためには、このグレー水素を、再生可能エネルギー由来の電力を用いた水電解などで製造されるグリーン水素や、CCUSと組み合わせたブルー水素に置き換えることが求められます。
技術的・経済的課題
- 製造コスト: グリーン水素やブルー水素の製造コストは、現状ではグレー水素と比較して高価です。これにより、水素を原料とする化学品の製造コストも上昇し、国際的な競争力に影響を与える可能性があります。コスト低減のためには、電解槽技術の効率化、再エネ電力の調達価格低減、CCUS技術のコストダウンなどが不可欠です。
- 供給インフラ: 大規模な化学プラントへ安定的に大量の低炭素水素を供給するためのインフラ(パイプライン、貯蔵設備など)整備が必要です。既存のインフラの活用可能性や、新規インフラ整備への投資判断は政策的な支援に大きく左右されます。
- 認証・トレーサビリティ: 使用される水素の低炭素性を保証するための認証制度やトレーサビリティシステムの確立が求められます。これにより、低炭素水素を使用した化学品の付加価値を明確にし、市場での差別化を図ることが可能となります。
政策的課題と方向性
化学品原料としての低炭素水素利用を促進するためには、以下の政策的なアプローチが考えられます。
- コスト差支援: グレー水素との価格差を埋めるための補助金や税制優遇措置。炭素税や排出量取引制度の導入により、化石燃料由来水素の相対的なコストを上昇させることも有効です。
- インフラ整備支援: 大規模な水素供給インフラの整備に対する公的支援や規制緩和。共同パイプラインの整備促進や、港湾エリアでの水素供給拠点構築などが考えられます。
- 需要創出: 低炭素水素を原料とする製品に対する優遇措置や、公共調達における優先的な利用促進。
- 技術開発支援: 高効率な電解槽技術、CCUS技術、触媒技術などの研究開発への投資促進。
- 国際連携: 低炭素水素およびその派生製品の国際取引を見据えた認証制度の相互承認や、サプライチェーン構築に関する国際協力。
合成燃料(e-fuel, e-methaneなど)製造における水素利用の可能性と課題
合成燃料(e-fuel, e-methaneなど)は、再生可能エネルギー由来の電力とCO2、そして水素を組み合わせて製造される燃料です。特に輸送部門や産業部門における脱炭素化が困難な分野(航空、海運、一部の産業炉など)において、既存の燃料インフラや機器を比較的そのまま利用できる「ドロップイン燃料」としての可能性が注目されています。水素は、合成燃料製造プロセスにおける主要な構成要素となります。
技術的・経済的課題
- 製造コスト: 合成燃料の製造コストは、現状では化石燃料由来の燃料と比較して非常に高価です。これは主にグリーン水素の高コストと、CO2回収・利用(CCU)プロセス、さらには燃料合成プロセスのコストに起因します。コスト低減には、グリーン水素のコストダウン、大規模なCCU技術の確立、合成反応プロセスの高効率化が不可欠です。
- 効率性: Power-to-X (P2X) プロセスはエネルギー変換効率が必ずしも高くありません。投入された電力に対して得られる燃料のエネルギー量が少なくなるため、大量の再エネ電力が必要となります。
- CO2調達: 合成燃料製造にはCO2が必要ですが、空気からの直接回収(DAC)はまだコストが高く、産業排出ガスからの回収も供給量や場所が限られます。安定的に安価なCO2を大量調達する仕組みが必要です。
- 供給インフラ: 製造された合成燃料を最終消費地へ輸送・貯蔵するためのインフラ整備も考慮する必要があります。既存インフラの活用可能性を評価しつつ、必要に応じて新規整備を検討する必要があります。
政策的課題と方向性
合成燃料製造における水素利用を促進するためには、以下の政策的なアプローチが重要です。
- コスト差支援: 合成燃料と既存燃料の価格差を埋めるための支援策(補助金、税制優遇、義務付けなど)。輸送燃料に対するブレンド義務付けや、特定セクターでの利用義務付けは、市場創出に有効です。
- 再エネ電力供給促進: 大規模な合成燃料製造に必要な大量かつ安価な再エネ電力の供給を確保するための政策(電力網整備、再エネ導入目標引き上げ、再エネ導入コスト低減策など)。
- CO2供給網整備: CO2の回収・輸送・貯蔵・利用に関するインフラ整備や、CO2を供給する産業との連携を促進する政策。
- 技術開発支援: DAC技術、高効率な合成反応触媒、プラント統合技術などの研究開発に対する投資促進。
- 国際協力: 合成燃料の製造は、再エネ資源が豊富な海外で行われる可能性が高いため、国際的な製造・輸送・供給体制の構築に向けた協力(認証制度、標準化、投資協定など)が不可欠です。
国際的な政策動向
多くの主要国は、それぞれの国家水素戦略において、化学品製造や合成燃料製造における水素利用の重要性を位置づけています。
- 欧州連合(EU): Fit for 55 パッケージやRePowerEU計画の中で、産業部門における水素利用の義務付けや目標設定、SAF(持続可能な航空燃料)やRFNBOs(再生可能な非生物由来燃料)の利用促進目標を設けています。水素供給や電解槽設置に対する大規模な補助金プログラム(IPCEI Hydrogenなど)も実施されています。
- 米国: インフレ削減法(IRA)において、クリーン水素製造に対する生産税額控除(45V)を導入しており、これによりグリーン水素の製造コストが大幅に削減される見込みです。これは、水素を原料とする化学品や合成燃料のコスト競争力向上に大きく寄与する可能性があります。
- 豪州: 大規模なグリーン水素製造プロジェクトが計画されており、海外への輸出、特にアンモニアなどの形での輸出を通じた化学品原料としての供給が視野に入れられています。連邦政府および州政府によるファンドやインセンティブが提供されています。
これらの国際的な動向は、日本の政策立案において重要な示唆を与えます。特に、海外での低コスト水素製造や合成燃料製造の動きを踏まえ、国内での需要創出策や国際的なサプライチェーン構築に向けた協力のあり方を検討する必要があります。
日本における政策課題と今後の展望
日本は、水素基本戦略において、2030年、2050年に向けた水素・燃料電池分野の導入目標を掲げており、産業部門での利用拡大や合成燃料の導入も重要な柱となっています。
化学品分野では、アンモニアやメタノールの燃料・原料転換が検討されています。合成燃料分野では、SAFやe-methaneの普及目標が設定され、供給・製造技術開発への支援が進められています。
しかし、国際的に見て、低炭素水素や合成燃料のコスト競争力、大規模サプライチェーンの構築、需要側の確実な導入コミットメントといった点においては、引き続き政策的な課題が存在します。
今後の政策においては、以下の点が鍵となると考えられます。
- 戦略的な需要創出策: コスト高の初期段階において、需要家が低炭素水素や合成燃料を導入しやすいインセンティブ設計(カーボンプライス、補助金、規制措置など)を強化すること。特に、国際競争に晒される産業や輸送部門に対し、国際動向も踏まえた支援策を講じること。
- 国際サプライチェーン構築へのコミットメント: 海外での製造・調達を見据え、長期的なオフテイク契約を後押しする仕組みや、認証・標準化における国際協調を主導すること。
- 技術開発と社会実装の一体推進: 革新的な製造・利用技術の研究開発に加え、実証から商業化・普及に向けたロードマップを明確にし、サプライチェーン全体での最適化を図ること。
- インフラ整備の加速: 需要地と供給地を結ぶ国内・国際的なインフラ整備(パイプライン、港湾設備など)に対する投資や制度設計を進めること。
結論
化学品原料および合成燃料製造における水素利用の拡大は、産業部門の脱炭素化に不可欠であり、新たな水素需要を創出する上で極めて重要です。これらの分野での水素導入には、コスト、インフラ、技術、認証など多岐にわたる課題が存在しますが、各国政府が積極的に政策的な支援策を打ち出し、国際的な競争・協力が活発化しています。
日本の政策当局においては、これらの国際動向を注視しつつ、国内の産業構造やエネルギー資源賦存状況を踏まえ、化学品・合成燃料分野における水素利用拡大に向けた具体的な目標設定、コスト支援策、インフラ整備計画、国際連携戦略などを総合的に検討・実行していくことが求められます。政策による適切な誘導と支援は、これらの新たな用途における水素経済の早期確立と、日本の産業競争力強化に大きく貢献するものと考えられます。