水素関連政策の成果測定とEBPM実践論:政策効果を定量評価するためのデータ戦略と評価指標
はじめに
脱炭素社会の実現に向け、水素エネルギーの導入拡大は喫緊の課題となっています。政府はロードマップに基づき、様々な政策手段を講じて水素関連技術開発、インフラ整備、需要創出を推進しています。これらの政策が目標達成にどれだけ貢献しているかを客観的に評価し、より効果的な政策立案・実行につなげるためには、証拠に基づく政策立案(EBPM: Evidence-Based Policy Making)の考え方を徹底し、政策効果を定量的に測定することが不可欠です。
本稿では、水素関連政策におけるEBPM実践の意義、政策効果を定量評価するために必要となるデータ戦略、および具体的な評価指標について、政策担当者の視点から検討すべき論点を整理します。
水素関連政策におけるEBPMの意義
EBPMは、経験や勘に頼るのではなく、客観的なデータや分析結果に基づき政策を企画・立案・実行・評価する一連のプロセスを指します。複雑かつ不確実性の高いエネルギー分野、特に黎明期にある水素経済の構築においては、EBPMが持つ以下の意義は極めて大きいと考えられます。
- 政策の有効性・効率性の向上: どの政策手段が最も効果的に目標達成に貢献しているかを特定し、限られた資源(予算、人材など)を最も効率的に配分するための根拠となります。
- 政策の透明性と説明責任の強化: 政策決定のプロセスや根拠を明確にすることで、国民や産業界への説明責任を果たし、政策に対する理解と信頼を得やすくなります。
- 迅速かつ柔軟な政策調整: 政策効果の継続的なモニタリングを通じて、想定外の課題や変化が生じた際に、迅速かつ柔軟に政策を調整するための客観的な判断材料を提供します。
- 国際連携・政策協調の促進: 共通の評価フレームワークやデータに基づき政策効果を議論することで、国際的な政策協調やベストプラクティスの共有を促進することができます。
水素関連政策の成果測定における課題
一方で、水素関連政策の成果測定は、その特性上いくつかの課題を伴います。
- 政策目標の多様性: 水素政策は、脱炭素化、エネルギー安全保障の強化、産業競争力の向上、地域活性化など、複数の目標を同時に追求しています。これらの多角的な成果をどのように評価するかは複雑な問題です。
- 長期的な視点と効果の発現: 水素経済の構築には、技術開発から社会実装、インフラ整備、需要創出まで長い年月を要します。政策効果が顕在化するまでに時間がかかるため、短期的な指標と長期的な指標を適切に組み合わせる必要があります。
- 政策手段の多様性と相互作用: 補助金、税制、規制緩和、国際標準化、研究開発支援など、様々な政策手段が組み合わされて実施されます。個々の政策手段の効果を分離して評価することや、政策間の相互作用(相乗効果や打ち消し合い)を把握することは容易ではありません。
- データ収集の難易度: 新しい産業分野であるため、必要な統計データや事業活動データが十分に整備されていない場合や、データの収集・集計にコストと時間を要する場合があります。
- 外部環境の影響: 国際的なエネルギー価格変動、地政学リスク、他国の政策動向など、政策効果に影響を与える外部要因が多く存在します。これらの要因を適切に考慮した上で政策効果を評価する必要があります。
政策効果を定量評価するためのデータ戦略
これらの課題を踏まえ、水素関連政策のEBPMを実践するためには、強固なデータ戦略が不可欠です。
1. 必要となるデータ種類の特定
政策効果の測定には、少なくとも以下の種類のデータが必要と考えられます。
- 政策投入データ: 政策に投入された資源に関するデータ。例:政策予算額(技術開発、インフラ、需要促進など施策別)、法規制の導入・改正数、国際会議への参加回数など。
- 活動データ: 政策の実施によって誘発された具体的な活動に関するデータ。例:補助金交付件数、R&Dプロジェクト採択件数、実証試験の実施件数、関連施設の建設・稼働状況(製造設備、パイプライン、ステーションなど)、技術ライセンス契約数、国際共同研究契約数など。
- 成果データ(中間・最終): 政策活動の結果として得られたアウトプットやアウトカムに関するデータ。例:水素製造量(燃料種別、製造方法別)、輸送量、貯蔵量、利用量(用途別)、技術開発目標の達成度、コスト低減率、関連投資額、雇用創出数、CO2排出削減量、エネルギー自給率の変化、関連産業の売上・利益、国際市場シェア、社会受容性の変化など。
- 外部環境データ: 政策効果に影響を与える外部要因に関するデータ。例:化石燃料価格、電力価格、他国の水素関連政策動向、関連技術(再エネ、CCUSなど)のコスト・普及状況、関連する国際標準の策定状況など。
2. データ収集と基盤構築
必要なデータを継続的かつ効率的に収集・集計・分析するためのデータ基盤構築が重要です。
- 既存統計の活用と改善: 既存のエネルギー統計や経済統計、貿易統計などで活用可能なデータを特定し、必要に応じて水素関連の項目を追加・拡充することを検討します。
- 新たなデータ収集チャネルの構築:
- 政策対象者(事業者、自治体など)からの定期的な報告徴収(補助金事業の成果報告など)。
- 関連機関(研究機関、業界団体、調査会社など)との連携によるデータ共有。
- センサーデータ、IoTデータを活用したリアルタイムモニタリング(インフラ稼働状況など)。
- アンケート調査やヒアリングによる非定量的な情報の収集(社会受容性、事業者の課題意識など)。
- データ連携と標準化: 異なる主体が保有するデータを連携させて総合的な分析を可能にするため、データフォーマットや定義の標準化を進めます。プライバシー保護やセキュリティに配慮した上でのデータ共有・活用プラットフォームの構築も有効と考えられます。
- データ品質管理: 収集したデータの正確性、網羅性、最新性を確保するための品質管理プロセスを確立します。
水素関連政策の主要な評価指標例
収集したデータを基に、政策効果を評価するための具体的な指標を設定します。政策目標や政策手段の種類に応じて、適切な指標を選択・設計することが重要です。
短期・中期的な活動・成果指標例
- 技術開発・実証:
- 特定の技術(例: 大規模水電解装置、高圧水素タンク)のコスト低減率(円/kW、円/kgなど)
- 特定の技術の効率向上率(例: 電解効率、燃料電池発電効率)
- 目標性能(例: 運転寿命、充填時間)達成度
- 実証試験の件数、期間、規模
- 関連特許出願数、論文発表数
- 国際共同研究・開発プロジェクト数
- インフラ整備:
- 水素製造設備の導入容量(MWまたはt/日)
- 水素輸送インフラ(パイプライン延長、液化ターミナル容量など)の整備状況
- 水素ステーションの設置数、稼働率、供給能力(kg/日)
- 水素貯蔵設備(オンサイト、大規模貯蔵など)の容量
- 関連投資額(政府、民間別)
- 関連施設の建設・許認可に要する期間
- 需要創出:
- 用途別の水素利用量(産業用燃料、化学原料、モビリティ、発電など、t/年またはNm3/年)
- 燃料電池自動車(FCV)、燃料電池バス・トラック、燃料電池フォークリフト、燃料電池船などの導入台数
- 水素焚きガスタービン、燃料電池発電設備などの導入容量
- 水素関連製品・サービスの販売額
- 関連産業での雇用創出数
- 国際連携:
- 水素・燃料アンモニアなどの輸入契約量、価格
- 国際共同プロジェクトの件数、規模
- 関連する国際標準化提案数、成立数
長期的・最終的な成果指標例
- 脱炭素化:
- 水素利用によるCO2排出削減量(t-CO2/年)。これは水素製造方法、輸送方法、利用方法におけるライフサイクル全体での評価(LCA)に基づき算出することが望ましいです。
- エネルギーシステム全体のカーボンインテンシティ(CO2排出量/エネルギー供給量)への貢献度
- エネルギー安全保障:
- エネルギー自給率への貢献度
- 特定のエネルギー源への依存度低減
- 燃料供給リスク分散への貢献度
- 産業競争力:
- 水素関連産業(製造業、サービス業など)の市場規模、成長率
- 関連企業の国際市場シェア
- 技術・製品の輸出額
- 海外からの投資誘致額
- 経済全体への影響:
- GDPへの貢献度
- マクロ経済モデルによる分析結果(雇用、物価、貿易収支など)
- 社会受容性:
- 国民や地域住民の水素エネルギーに対する認知度、理解度、導入に対する賛否(意識調査結果など)
これらの指標を評価する際には、政策がなかった場合と比較してどの程度の効果があったのか(反実仮想)を推定するための分析手法(例: 差分の差分法、傾向スコアマッチング、回帰分析、CGEモデルなどの経済モデル)を適用することが有効です。
結論
水素経済の実現に向けた道のりは長く、不確実性も伴います。このような状況下において、限られたリソースを最大限に活かし、目標達成確率を高めるためには、水素関連政策におけるEBPMの徹底が不可欠です。
政策効果を定量的に評価するためには、政策投入、活動、中間成果、最終成果といった段階に応じた適切な評価指標を設定し、その測定に必要なデータを戦略的に収集・整備する必要があります。特に、黎明期にある水素分野では、既存の統計データが十分でない場合が多く、新たなデータ収集チャネルの構築やデータ連携・標準化への投資が重要となります。
政策担当者には、これらのデータと指標に基づき政策効果を客観的に分析し、その結果を政策の企画・立案・実行・評価・見直しという政策サイクル全体にフィードバックしていく体制を構築することが求められます。継続的なデータ収集・分析と政策改善のサイクルを回すことが、水素経済の着実な発展を支える強固な政策基盤の構築に繋がるものと考えられます。