水素価格低減に向けた市場メカニズムの活用と政策課題:主要国の事例分析
はじめに
水素エネルギーの普及拡大と経済合理的な水素経済の実現には、製造から輸送、貯蔵、利用に至るサプライチェーン全体でのコスト削減、すなわち水素価格の低減が不可欠です。現在の水素価格は、既存の化石燃料由来エネルギーと比較して競争力がなく、これが需要創出やインフラ投資の大きな障壁となっています。
水素市場はまだ発展途上にあり、価格形成メカニズムも十分に成熟していません。このような状況下で、各国政府は水素導入目標の達成を目指し、様々な政策手段による市場への介入を進めています。本稿では、水素市場における価格形成の現状と特有の課題を整理し、主要国が講じている価格低減に向けた政策介入の事例を分析します。その上で、市場メカニズムを効果的に活用しつつ、政策目標を達成するための課題と今後の方向性について考察します。
水素価格形成の現状と課題
水素の価格は、その製造方法(グレー、ブルー、グリーンなど)、輸送・貯蔵方法(気体、液体、アンモニア、MCHなど)、利用地点までの距離、インフラ整備状況、利用量など、多岐にわたる要因によって変動します。現状では、グレー水素が最も安価ですが、脱炭素化に貢献するグリーン水素やブルー水素は製造コストが高いという課題を抱えています。
主要な価格形成上の課題としては、以下の点が挙げられます。
- 高コスト構造: 特にグリーン水素は、再生可能エネルギー電力のコスト、電解装置の初期投資、運用コストなどが高く、経済的な自立には大規模なコスト削減が必要です。
- サプライチェーンの未成熟性: 輸送、貯蔵、供給インフラが未整備であり、既存のエネルギー供給網のような効率的な大量供給体制が確立されていません。これが中間コストを押し上げています。
- 市場の不透明性: 標準化された取引市場が未発達であり、価格情報が不透明です。買い手と売り手の間の情報格差が存在し、効率的な価格発見機能が働きにくい状況です。
- 長期契約の困難さ: 大規模な投資回収には長期的な需要と価格の安定が見通せる長期契約が有効ですが、需要家側のリスク懸念などから締結が進みにくい傾向にあります。
- 外部コストの反映不足: 化石燃料に比べて水素の環境価値が十分に価格に反映されない場合、経済的な競争力が生まれません。
主要国における水素価格低減に向けた政策介入事例
各国政府は、これらの課題に対応し、水素価格の低減と市場の活性化を目指し、様々な政策ツールを導入しています。
1. 補助金・税制優遇
- 製造コスト支援: 再生可能エネルギー由来の水素製造(グリーン水素)や、CCUS付きの化石燃料由来水素製造(ブルー水素)に対して、設備投資補助や生産税額控除などを提供する事例が多く見られます。例えば、米国のインフレ削減法(IRA)におけるクリーン水素製造税額控除(45V)は、製造時の炭素強度に応じて最大でキログラムあたり3ドルの税額控除を付与する強力なインセンティブであり、グリーン水素の経済性を大幅に改善する効果が期待されています。
- インフラ投資支援: 輸送パイプライン、貯蔵施設、供給ステーションなどのインフラ整備に対して、補助金や低利融資を提供し、サプライチェーン全体のコスト低減を図っています。欧州諸国の水素バックボーン構想などがこれに該当します。
- 需要家向けインセンティブ: 燃料電池車購入補助、産業プロセス転換支援など、利用側の初期投資負担を軽減する政策も、間接的に需要を喚起し、規模の経済によるコスト削減に繋がります。
2. 公共調達・需要目標の設定
- 政府・公的部門による購入: 政府や公営企業が率先してクリーン水素を調達する仕組みを構築することで、初期需要を創出し、生産者に安定的な収益源を提供します。
- セクター別利用目標: 産業、運輸、発電など、特定のセクターに水素利用目標や義務量を設定することで、強制的に需要を創出し、市場を育成します。
3. オークション制度
- 水素製造支援オークション: EU諸国などで導入が検討されているオークション制度は、競争入札を通じて最もコスト効率の高い水素製造プロジェクトを選定し、公的支援を付与する仕組みです。これにより、支援額の効率化と価格の引き下げ効果が期待されます。例えば、ドイツのH2Globalスキームは、長期的な購入契約を保証するメカニズムと組み合わせて、グローバルな水素市場の形成を促進しようとしています。
4. カーボンプライシングとの連携
- 排出量取引制度(ETS)や炭素税の導入は、化石燃料利用のコストを相対的に引き上げるため、水素の価格競争力を高める効果があります。ただし、カーボンプライシングの水準が十分でない場合や、水素製造時の排出量に対する扱いが不十分な場合は、期待する効果が得られないこともあります。
市場メカニズムの活用に向けた政策課題
これらの政策介入は水素市場の形成を加速させる一方で、市場メカニズムの自律的な機能を阻害しないよう配慮が必要です。
- 支援の出口戦略: 政策支援は初期段階のコストギャップを埋める上で有効ですが、市場が自立的に機能するようになった際の支援の段階的な縮小や終了に向けた明確な戦略が必要です。過度な支援は非効率な事業を温存させる可能性があります。
- 市場ルールの整備: 公正な競争環境を確保するための情報公開基準、取引ルール、標準契約モデルなどの整備が求められます。これにより、市場参加者の予見可能性が高まり、投資が促進されます。
- 国際連携と標準化: 水素は国際的な取引が見込まれるため、価格評価手法や低炭素性基準の国際的な整合性が不可欠です。国際連携を通じて、グローバルな水素市場の透明性と効率性を高める必要があります。
- リスクシェアリング: 大規模な水素プロジェクトには依然として大きなリスクが伴います。政策的に、初期投資リスクの低減や需要変動リスクの分散を図る仕組み(例:差金決済契約; CfDなど)を検討することが有効です。
結論
水素価格の低減は、水素経済を社会全体に浸透させるための最重要課題の一つです。現在の水素価格は、製造技術、インフラ、市場の未成熟性など複数の要因により依然として高止まりしており、政策による積極的な支援が不可欠な段階です。
主要国は、補助金、税制優遇、公共調達、オークション制度、カーボンプライシング連携など、多様な政策ツールを導入し、水素製造コストの低減、インフラ整備、需要創出を促しています。これらの政策は初期市場の形成に寄与しますが、長期的な目標は市場メカニズムが自律的に効率的な価格形成を行う環境を整備することにあります。
今後求められる政策は、単なる財政支援に留まらず、市場の透明性向上、標準化、国際連携の強化、そして市場リスクを適切に評価・分散する仕組みの構築に重点を置くことと考えられます。これにより、民間投資を喚起し、競争原理に基づくコスト削減を加速させ、持続可能な水素経済の実現に繋がるでしょう。政策担当者には、市場動向を注視しながら、柔軟かつ戦略的に政策を設計・実行していくことが期待されます。