国際比較に見る水素安全規制の動向:日本の政策課題と今後の方向性
導入:水素導入拡大における安全確保の重要性
カーボンニュートラル実現に向けた主要なエネルギーキャリアとして、水素への期待が高まっています。水素の製造、輸送、貯蔵、利用といったサプライチェーン全体での導入拡大には、技術開発と並行して、安全確保のための適切な規制環境の整備が不可欠です。特に、都市部での利用拡大や一般への普及が進むにつれて、高圧ガスとしての基本的な物性に加え、広範な用途や新たな技術に対応した安全規制のあり方が問われています。
各国はそれぞれの状況に応じた安全規制の整備を進めていますが、国際的な水素取引の拡大や技術標準の連携を考慮すると、主要国の規制動向を把握し、比較分析を行うことは、日本の政策立案者にとって重要な示唆をもたらすと考えられます。本稿では、主要国における水素安全規制のフレームワークを概観し、日本の現状と比較することで、今後の政策課題と方向性について考察します。
主要国における水素安全規制のフレームワーク
主要な水素導入促進国では、既存のガス安全規制や産業安全規制をベースとしつつ、水素特有の性質や新しい技術・用途に対応するための規制整備や標準化が進められています。
欧州連合(EU)
EUでは、既存の圧力機器指令(PED)や防爆指令(ATEX)などが基本的な安全要求事項を定めていますが、水素に関しては特定の指令は存在せず、加盟国ごとに詳細な規制が異なります。しかし、FCV(燃料電池自動車)や水素ステーションに関しては、統一的な技術規則であるUN規則が広く参照されています。また、エネルギーシステムの統合が進む中で、水素を含むガスインフラの安全に関する標準化(例: CEN/CENELECによる規格開発)が進められています。域内市場における相互運用性と安全レベルの統一が重視される傾向にあります。
米国
米国では、連邦レベルと州レベルで安全規制が存在し、複雑な体系となっています。連邦レベルでは、運輸省(DOT)が高圧ガス輸送に関する規制を、労働安全衛生局(OSHA)が職場における安全基準を定めています。技術標準に関しては、NFPA(全米防火協会)のNFPA 2コード(水素技術コード)やASME(米国機械学会)の規格などが広く参照され、多くの州で法的に引用されています。用途や設置場所に応じたリスク評価に基づき、柔軟かつ詳細な安全要件が定められる傾向があります。
豪州
豪州では、各州・準州が主要な安全規制権限を持ちますが、国レベルでの基準策定や調整も行われています。既存のガス・危険物関連法規をベースに、水素エネルギーシステムに特化したガイドラインや基準(例: Standards AustraliaによるAS 4961など)が開発されています。特に、輸出を視野に入れた大規模水素製造・輸送プロジェクトにおける安全評価とリスク管理が重視されています。
日本の水素安全規制の現状と国際比較
日本においては、水素は主に高圧ガス保安法(高圧法)の規制対象とされています。高圧法は、水素を含む高圧ガスの製造、貯蔵、移動、販売等に関する包括的な安全規制を定めており、長い歴史の中で安全実績を積み上げてきました。また、水素ステーションに関しては、高圧法に加え、建築基準法や消防法など複数の法令が関係しています。
近年、水素導入拡大を促進するため、既存規制の見直しや合理化が進められています。例えば、水素ステーションの設置距離基準の緩和や、新しい技術・材料の導入を可能にするための技術基準の整備などが行われています。
国際比較を行うと、日本の高圧法は設備単位での技術基準が詳細に定められている点が特徴的です。これは安全確保に寄与する一方で、新しい技術や多様な利用形態への適用に柔軟性を欠く場合があるという指摘もあります。欧米で見られるような、用途やリスクに応じた機能性基準や性能基準、包括的なリスクアセスメントに基づくアプローチと比較検討することは有益と考えられます。
国際比較から見た日本の政策課題と今後の方向性
国際的な規制動向と比較した場合、日本の水素安全規制にはいくつかの政策課題が考えられます。
- 既存法体系との整合性と柔軟性: 高圧法を核とした既存法体系は安全実績がありますが、水素エネルギーシステムの多様化や大規模化、新技術の導入に十分に対応できるか検討が必要です。リスクアセスメントに基づいた性能基準の導入や、用途・規模に応じた規制の柔軟化が求められる可能性があります。
- 新技術への対応: 液化水素、固体水素貯蔵、長距離パイプライン輸送、P2G (Power to Gas) など、新しい技術要素が導入される際の安全評価手法や基準策定が継続的な課題となります。海外の先行事例や技術標準の動向を注視し、迅速かつ適切な対応が必要です。
- 国際標準化への貢献と連携: 国際的な水素取引や技術協力が進展する中で、ISOやIECなどの国際標準化活動への積極的な貢献は、日本の技術や規制の国際展開にも繋がります。また、各国の規制当局や標準化機関との情報交換や連携を強化することも重要です。
- 国民理解と受容の促進: 安全規制の整備は、技術的な側面に加えて、国民の水素エネルギーに対する理解と信頼を獲得するための基盤となります。分かりやすい情報提供やリスクコミュニケーションの実施も政策担当者の重要な役割となります。
結論:国際連携を踏まえた戦略的な規制整備に向けて
水素エネルギーの本格的な社会実装には、高度な技術開発と並行して、社会が受容できる高い安全レベルを確保するための規制環境の整備が不可欠です。主要国の動向を見ると、既存の安全規制をベースとしつつも、用途や技術の多様化に対応するための柔軟性や、リスクに基づいたアプローチが重視されつつあります。
日本においても、長年培ってきた高圧ガス保安の経験を活かしつつ、国際的な議論や技術動向を踏まえた戦略的な規制の見直しや整備を進めることが求められます。既存法体系との整合性を図りながら、新しい技術や利用形態に対応できる柔軟な基準を導入すること、そして国際標準化活動や各国の規制当局との連携を強化することが、安全な水素社会の実現に向けた重要な政策課題となるでしょう。今後も、国内外の最新情報を収集・分析し、政策立案に資する議論を深めていくことが重要です。