国際比較に見る国内水素産業育成政策:競争力強化に向けた論点
はじめに
水素エネルギーは、カーボンニュートラル社会実現に向けた重要な鍵として世界的に注目されています。各国は、その導入拡大と同時に、関連産業の育成を通じて新たな経済成長の機会を捉えようとしています。特に、水素関連技術開発、製造、輸送、貯蔵、利用に至るまで、サプライチェーン全体で国際的な競争が激化しており、主要国は自国の優位性を確立するための様々な政策を打ち出しています。
本稿では、主要国の水素産業育成に向けた政策動向を比較分析し、日本の水素産業が国際競争力を強化するために政策担当者が注視すべき論点について考察します。
主要国の水素産業育成戦略の概観
欧米主要国やアジア太平洋地域の一部国家は、それぞれのエネルギー資源、産業構造、技術開発レベルといった特性を活かしつつ、水素産業育成のための多岐にわたる政策を実施しています。その主要な政策手段としては、以下のようなものが挙げられます。
- 財政的支援: 研究開発(R&D)への補助金、設備投資への税制優遇や助成金、パイロットプロジェクトへの資金提供など。
- 需要創出策: 公共調達における優先的な導入、特定の産業分野(例: 製鉄、化学、モビリティ)における水素利用促進のためのインセンティブ、カーボン価格メカニズムとの連携による水素の競争力向上。
- 規制・標準化: 水素関連技術やインフラに関する安全基準、認証制度、環境規制の整備。国際標準化への貢献と国内基準の整合性確保。
- サプライチェーン構築支援: 水素製造拠点、輸送インフラ(パイプライン、ターミナル)、貯蔵施設などの整備に対する支援、国際的なサプライチェーン構築に向けた外交・連携強化。
- 人材育成: 水素関連分野の専門技術者や研究者の育成、リカレント教育プログラムの推進。
例えば、欧州連合(EU)や一部加盟国は、グリーン水素製造能力の拡大に重点を置き、大規模な研究開発資金や生産支援策を展開しています。米国では、インフレ抑制法(IRA)等を通じて、クリーン水素製造に対する税額控除が導入されるなど、市場メカニズムを活用した支援が見られます。アジアでは、中国が大規模な水素製造・利用実証を展開し、韓国は特定の産業分野(燃料電池自動車など)での優位性確保を目指す政策を推進しています。
これらの政策は、単に水素導入を促進するだけでなく、関連技術の開発・社会実装を加速させ、国内産業の雇用創出や経済活性化を図ることを目的としています。
日本の水素産業の現状と国際競争力
日本は、古くから燃料電池技術の研究開発に取り組むなど、水素分野で先進的な技術力を持つとされてきました。しかしながら、サプライチェーン全体の構築やコスト競争力においては、他の主要国に比べて課題も指摘されています。
- コスト: 製造、輸送、貯蔵、利用の各段階で、欧米や資源国と比較してコストが高い傾向にあります。これは、大規模な再生可能エネルギー資源の制約や、初期投資の高さなどが要因と考えられます。
- サプライチェーン構築: 海外からの大規模な低コスト水素調達や国内での大規模利用を前提としたサプライチェーンの構築は途上段階にあります。
- 市場規模: 一部の分野(FCVなど)では先進的な導入が見られますが、産業全体の市場規模としてはまだ小さいと言えます。
国際的な産業育成競争が激化する中で、日本の水素産業が国際競争力を維持・強化するためには、これらの課題に対する政策的なアプローチが不可欠となります。
国際競争力強化に向けた政策的論点
日本の水素産業が国際的な競争環境において優位性を確立するためには、以下の論点を踏まえた政策設計が重要と考えられます。
1. 重点分野の特定と戦略的支援
水素経済は非常に裾野が広く、すべての分野で他国を凌駕することは現実的ではありません。日本の技術的強み、産業構造、地理的条件などを考慮し、特に国際競争力を発揮できる可能性のある分野(例: 水電解装置、燃料電池システム、水素タービン、高度な輸送・貯蔵技術、特定の利用技術など)を戦略的に特定し、集中的な研究開発支援、実証プロジェクトの推進、初期市場の創出支援を行うことが有効であると考えられます。
2. 国際連携の強化と市場獲得
低コストな水素製造や輸送には国際協力が不可欠です。資源国や先進技術を持つ国との国際連携を強化し、日本の技術やノウハウを活かせる国際的なサプライチェーンの構築を目指す必要があります。また、海外市場へのアクセスを容易にするための外交的な取り組みや、日本の技術・製品の国際標準化を戦略的に推進することも重要です。
3. 国内市場の戦略的創出と拡大
国内における水素需要を戦略的に創出し、初期市場を拡大することが、関連産業の事業機会を生み出し、コスト低減と技術洗練を促します。特定の産業クラスターや地域における集中的な導入支援、公共部門による積極的な活用、規制緩和による民間投資の促進などが考えられます。また、需要サイドからの「呼び水」となるような政策インセンティブも効果的である可能性があります。
4. 規制・基準の整備と国際整合性
水素の安全かつ効率的な導入には、適切な規制や基準の整備が不可欠です。国内外の技術動向や安全データに基づいた迅速かつ柔軟な規制見直しを行うとともに、国際的な基準や認証との相互承認を進めることで、国内産業の国際展開を円滑にすることが期待されます。
5. 人材育成とエコシステム構築
水素関連産業の成長には、高度な専門知識を持つ人材の育成が不可欠です。大学、研究機関、企業が連携した教育プログラムの充実や、異分野からの人材流入を促進する施策が必要です。また、大企業から中小企業、スタートアップまで、様々なプレイヤーが連携し、新たな技術やビジネスモデルを生み出すエコシステムを政策的に支援することも、産業競争力強化に繋がります。
結論
世界各国が水素経済の主導権を握ろうと競争を繰り広げる中、日本の水素産業が国際的な競争力を維持・強化するためには、戦略的かつ包括的な政策アプローチが求められます。重点分野の特定、国際連携、国内市場の創出、規制整備、人材育成といった多角的な施策を組み合わせることで、日本の技術力や産業基盤を最大限に活かし、水素経済時代における新たな成長機会を掴むことができると考えられます。今後の政策立案においては、これらの論点を深く掘り下げ、実効性のある施策へと繋げていくことが期待されます。