既存エネルギーインフラの脱炭素化:天然ガスパイプラインの水素混入・専送に向けた政策課題と展望
水素経済の実現に向け、既存のエネルギーインフラ、特に天然ガスパイプラインの活用は重要な論点の一つです。新規インフラ構築に比べてコストやリードタイムを抑えられる可能性がある一方で、技術的、規制的、経済的、そして安全性の面で様々な課題が存在します。本記事では、天然ガスパイプラインにおける水素混入および水素専送(100%水素輸送)への転換に向けた政策的な課題と、国内外の動向、今後の展望について分析します。
天然ガスインフラ活用における水素混入と水素専送のアプローチ
天然ガスパイプラインで水素を輸送する方法としては、主に以下の二つが検討されています。
- 水素混入(Blending): 既存の天然ガスに一定濃度の水素を混合して輸送する方式です。既存のインフラや利用設備を比較的容易に活用できる可能性がありますが、混入可能な水素濃度はパイプライン材料、バルブ、コンプレッサー、そして末端の燃焼機器の適合性によって制限されます。現状では、欧州などで数%程度の混入試験や実証が進められています。
- 水素専送(Dedicated Hydrogen Pipeline): 既存の天然ガスパイプラインを改修または転用し、100%の水素を輸送する方式です。より大量の水素を輸送できますが、材料の水素脆化リスクへの対応、高圧対応、漏洩対策など、既存パイプラインの大規模な改修や交換が必要となる場合があります。また、末端の利用設備も水素専用のものが必要となります。
政策担当者にとっては、これらの技術的アプローチそれぞれの特性、コスト、リスクを理解し、どの方式をどの段階で推進していくかを検討する必要があります。
パイプライン転換に向けた技術的・安全性に関する政策課題
天然ガスパイプラインの水素利用転換における最も重要な課題の一つは、技術的な適合性と安全性です。
- 材料適合性: パイプライン鋼材、溶接部、バルブ、シール材などが水素脆化(水素の吸収により材料の延性が低下し、破壊しやすくなる現象)を起こさないかどうかの評価が不可欠です。特に高圧での水素輸送においてはリスクが増大します。既存インフラの建設時期や材料仕様は多岐にわたるため、個別の評価や対策(例: パイプライン内面コーティング)が必要となる場合があります。
- 漏洩対策: 水素は天然ガスに比べて分子が小さく、漏洩しやすい性質があります。既存の接続部やバルブからの微細な漏洩リスクが高まる可能性があり、ガス検知システムや修理技術の高度化が求められます。
- 流量・圧力制御: 水素の燃焼特性は天然ガスと異なるため、ネットワーク全体での安定的な供給を維持するための流量・圧力制御システムの調整や改修が必要となります。
- 末端利用設備の適合性: 家庭用ガス機器、産業用バーナー、発電タービンなど、パイプラインから供給されるガスを利用する側の設備が、水素混入ガスまたは100%水素に対応できるかどうかの検証と改修・交換が必要です。高濃度の水素に対応するには、多くの既存設備が利用できない可能性があります。
これらの技術的課題に対応するため、政策としては、材料評価基準の策定、安全性に関する実証試験への支援、関連技術開発への投資促進などが重要となります。特に、既存インフラの仕様に関する正確な情報を収集し、リスク評価に基づいた段階的な導入ロードマップを策定することが求められます。
規制・標準化の課題と国際動向
天然ガスパイプラインの水素利用に関する規制や標準は、各国・地域で発展途上にあります。
- 水素混入率の規制: 欧州連合(EU)では、加盟国が自主的に混入率を設定しており、国によって基準が異なります(例: ドイツでは最大10%、オランダでは10%超の実証)。日本国内でも、都市ガスへの水素混入に関する検討が進められていますが、安全性や末端利用設備への影響を考慮した混入率の上限設定が政策的な論点となります。
- パイプライン転用・改修の基準: 既存の天然ガスパイプラインを水素専送用に転用または改修する際の技術基準、安全基準、許認可プロセスに関する明確な規定が必要です。
- 国際標準化: 水素パイプラインの設計、建設、運用、保守に関する国際標準の策定が、越境パイプラインネットワークの構築や国際的な水素流通を促進するために重要となります。ISOや他の国際機関での議論が進められています。
政策としては、これらの規制・標準化の動向を注視しつつ、国内における安全基準の策定を急ぐとともに、国際標準化への積極的な貢献を通じて、日本の技術や知見を反映させていく戦略が求められます。
経済性・事業性の課題と政策的支援
天然ガスパイプラインの水素転換は、多額の初期投資と運用コストを伴う可能性があります。
- コスト構造: パイプラインの改修・交換費用、圧縮設備や計量設備の更新費用、安全対策費用など、転換にかかるコストは既存インフラの状態や転換方式によって大きく変動します。
- 事業モデル: 水素輸送事業としての収益モデルを確立する必要がありますが、初期の需要が限定的である場合や、水素価格が高い間は事業採算性の確保が困難となる可能性があります。
- 既存資産の減損リスク: 天然ガス供給事業者が保有する既存インフラ資産の価値が、水素転換の進展に伴い減損するリスクも考慮する必要があります。
これらの経済的・事業性課題に対し、政策としては、インフラ投資に対する補助金や税制優遇、低利融資などの直接的な財政支援、リスクを軽減するための官民連携スキームの構築、長期的な水素需要を確保するための政策インセンティブ(例: 産業部門への水素利用促進策)などが検討される必要があります。また、天然ガス事業からの公正な移行を支援する枠組みも重要となる可能性があります。
社会受容性の確保
パイプラインの水素利用転換は、地域社会の理解と合意形成が不可欠です。安全性への懸念、インフラ変更に伴う景観や環境への影響、そして将来のエネルギーシステムに対する説明責任が求められます。
政策としては、住民説明会や情報公開を徹底し、安全性に関する客観的な情報提供を行うとともに、地域住民や関係事業者との継続的な対話を促進する枠組みを構築することが重要となります。
まとめと今後の展望
天然ガスパイプラインの水素混入・専送への転換は、既存インフラを有効活用し、水素サプライチェーンを早期に構築するための有力な選択肢ですが、技術、安全、規制、経済、社会受容性など多岐にわたる政策課題が存在します。
今後、政策担当者が取り組むべき主な方向性としては、以下の点が挙げられます。
- 既存パイプラインの材料適合性や安全性に関する詳細な実態把握と評価手法の確立。
- 水素混入率に関する段階的な目標設定と、それに合わせた技術基準・安全基準の策定。
- 水素専送パイプラインへの転換を視野に入れた長期的な規制・標準化ロードマップの策定と国際連携。
- インフラ転換投資を促進するための効果的な財政支援、リスクシェアリング、事業環境整備。
- 安全性確保を最優先とした上での、地域社会との丁寧なコミュニケーションと合意形成プロセスの構築。
国内外での実証試験や政策議論の進展を注視し、それらの知見を国内政策に適切に反映させていくことが、天然ガスインフラの脱炭素化と水素経済の円滑な移行を実現する鍵となります。