国際水素サプライチェーンを支える輸送・貯蔵インフラの政策的課題とボトルネックの克服
はじめに
脱炭素社会の実現に向けた主要なエネルギーキャリアとして、水素への期待が高まっています。特に、再生可能エネルギー資源に恵まれた地域で製造した水素を、需要地まで大量かつ安価に輸送・貯蔵する技術およびインフラの整備は、グローバルな水素経済を構築する上で不可欠な要素です。しかし、水素の輸送・貯蔵には特有の技術的、経済的、そして政策的な課題が存在し、これらが大規模な国際水素サプライチェーン構築のボトルネックとなる可能性があります。
本稿では、国際的な水素経済実現に向けた輸送・貯蔵インフラ構築における主要国の政策動向を概観しつつ、政策担当者が直面する具体的な政策的課題を特定します。さらに、これらのボトルネックを克服するための政策アプローチについて分析し、今後の政策立案への示唆を提供することを目的とします。
水素輸送・貯蔵の主要技術と政策的含意
水素の輸送・貯蔵技術は多様であり、それぞれに特徴と政策的な考慮事項があります。
- パイプライン: 大規模・長距離輸送に適しており、最もコスト効率が高い輸送方法となる可能性があります。既存の天然ガスパイプラインの転用や、新規の専用パイプライン建設が検討されています。政策的には、法規制の整備(所有権、アクセス権、安全基準)、投資インセンティブ、既存インフラ事業者との連携が重要となります。
- 液化水素(LH2): 水素を-253℃に冷却して液化する技術です。体積エネルギー密度が高いですが、液化に多くのエネルギーを要し、低温での取り扱いに高度な技術が必要です。海上輸送においては有力な選択肢となります。政策的には、液化・貯蔵・運搬に関する安全基準の確立と国際調和、関連インフラ(液化プラント、貯蔵タンク、船)への投資支援が焦点となります。
- 水素キャリア(アンモニア、MCHなど): 水素を他の化合物(アンモニア:NH3、メチルシクロヘキサン:MCHなど)に変換して輸送・貯蔵する方法です。常温・常圧や比較的緩和な条件で扱えるため、既存のインフラや技術を活用しやすい利点があります。需要地で水素を取り出す工程(脱水素)が必要です。政策的には、キャリア製造・輸送・貯蔵・脱水素に関する安全規制や環境規制の整備、関連産業(化学、海運など)との連携促進、サプライチェーン全体のコスト削減に向けた支援が重要となります。
- 高圧ガス: 短距離・小規模輸送に適しており、主にトラック輸送などに用いられます。政策的には、充填・運搬・貯蔵に関する安全基準の遵守徹底と、スタンド設置などインフラ整備への支援が求められます。
これらの技術選択は、輸送距離、輸送量、コスト、安全性、既存インフラの活用度合い、そして各国の政策目標によって異なります。政策担当者は、技術の特性とコスト構造を理解し、自国の地理的条件や産業構造に合った最適なインフラ整備戦略を策定する必要があります。
主要国の水素輸送・貯蔵インフラ政策動向
欧州、米国、豪州といった主要国・地域は、水素経済戦略の中で輸送・貯蔵インフラ整備を重要な柱と位置づけています。
- 欧州連合(EU): 欧州水素バックボーン構想に代表されるように、既存の天然ガスパイプライン網を水素用に転用・拡充する計画が進行しています。域内の水素流通を促進するため、法制度の整備(水素ネットワーク規則の策定など)や、プロジェクトへの公的資金支援(IPCEIなど)が進められています。域外国からの水素輸入を想定した港湾インフラの整備も議論されています。
- 米国: 水素ハブ構築に重点を置いており、地域ごとの水素製造・輸送・利用のエコシステム構築を目指しています。インフラ整備に対して、インフレ抑制法(IRA)に基づく税額控除や、エネルギー省からの資金援助が提供されています。パイプラインや既存インフラ転用に関する技術開発や実証も推進されています。
- 豪州: 再生可能エネルギー資源が豊富であり、国際的な水素輸出国となることを目指しています。主要港湾における輸出ターミナルや、内陸部からの輸送インフラ整備が計画されています。日本を含む需要国との連携協定に基づき、サプライチェーン構築に向けた共同研究や実証事業が進められています。
これらの事例から、主要国はそれぞれ異なるアプローチを取りつつも、法制度整備、財政支援、国際協力、技術開発支援をインフラ整備の共通的な政策手段として活用していることがわかります。
インフラ構築における政策的課題とボトルネック
水素輸送・貯蔵インフラの大規模構築には、以下のような政策的課題がボトルネックとなる可能性があります。
- 巨額の初期投資と長期的な回収見通し: パイプラインや大型輸送船、液化プラント、アンモニア・MCH製造プラントなどは、建設に巨額の初期投資が必要であり、その回収には長期間を要します。需要の立ち上がりが不確実な中で、民間投資を呼び込むためのリスク低減策や長期的な政策安定性が求められます。
- 規制・標準化の遅れと国際調和: 水素インフラに関する安全基準、技術仕様、環境規制などが、まだ十分に整備されていない、あるいは国・地域によって異なる場合があります。これにより、技術開発やインフラ建設の遅れ、国際的なサプライチェーン構築における相互運用性の問題が生じる可能性があります。国際的な標準化に向けた議論への積極的な参加が重要です。
- 社会受容性: 新しいインフラ(例: パイプライン、貯蔵施設)の建設に対して、地域住民の理解と協力が不可欠です。安全性への懸念や環境影響に関する情報提供、丁寧なコミュニケーションを通じた社会受容性の確保が政策課題となります。
- 既存インフラとの連携: 天然ガスパイプラインや電力網など、既存エネルギーインフラとの連携をどのように図るか、技術的・経済的・政策的な調整が必要です。既存インフラの有効活用はコスト効率を高める上で重要ですが、安全性や技術的な適合性の課題も伴います。
- 国際連携の必要性: 国際的な水素サプライチェーン構築には、供給国、輸送国、需要国間の政策連携が不可欠です。輸出入に関する規制、認証制度、安全基準などの国際的な枠組みの構築が求められます。
これらの課題は相互に関連しており、単一の政策手段では解決が困難な場合があります。
ボトルネック克服に向けた政策的アプローチ
上記の政策的課題を克服し、円滑なインフラ構築を促進するためには、以下のような政策アプローチが有効と考えられます。
- 政策インセンティブの強化: 巨額の初期投資リスクを低減するため、補助金、税制優遇、低利融資などの財政支援策を戦略的に投入することが考えられます。特に、インフラの公益性を考慮した投資回収メカニズムの設計が重要となります。
- 規制改革と標準化の推進: インフラ建設や運用に関わる許認可プロセスの合理化、最新の技術動向を踏まえた柔軟かつ実効性のある安全規制の整備を進めます。同時に、ISOなど国際機関における標準化議論に積極的に参画し、国際的な相互運用性を確保するための取り組みを強化します。
- 官民連携フレームワークの構築: インフラ開発の計画段階から、政府、インフラ事業者、需要家などが緊密に連携する仕組みを構築します。これにより、情報共有を円滑にし、投資判断の確実性を高め、社会受容性向上に向けた取り組みを共同で進めることが可能となります。
- 実証事業と技術開発支援: 大規模輸送・貯蔵技術の実証事業や、コスト削減・効率向上に資する技術開発への支援を継続します。これにより、技術的な不確実性を低減し、将来の商用展開に向けた基盤を強化します。
- 国際協力の深化: 主要な水素輸出入国との間で、政府間レベルでの対話や協定を強化し、サプライチェーン構築に向けた共通理解を醸成します。安全基準、認証制度、取引ルールなどに関する国際的な枠組み形成を主導または貢献していくことが重要です。
これらの政策アプローチは、単独で実施するのではなく、相互に補完し合う形で整合性を持って実行されることが効果的と考えられます。
まとめ
国際的な水素経済の実現において、輸送・貯蔵インフラの整備はボトルネックとなる可能性を秘めています。巨額の投資、規制・標準化の遅れ、社会受容性、既存インフラとの連携、国際連携の必要性など、多岐にわたる政策的課題が存在します。
これらのボトルネックを克服するためには、強力な政策インセンティブ、規制改革と標準化の推進、官民連携、技術開発支援、そして国際協力の深化といった包括的な政策アプローチが不可欠です。主要国の動向を参考にしつつ、日本の地理的条件やエネルギー政策の目標を踏まえ、戦略的かつ整合性のあるインフラ整備政策を立案・実行していくことが求められています。
今後の政策立案においては、これらの課題に対する理解を深め、国内外の関係者と連携しながら、実効性のある政策措置を検討していくことが重要であると考えられます。