水素経済の安定供給を支える長期大規模貯蔵技術:現状、政策的課題、今後の展望
はじめに
水素を多様な形で社会システムに導入し、持続可能なエネルギーキャリアとして活用する「水素経済」の構築は、脱炭素社会実現に向けた重要な戦略の一つです。水素サプライチェーンは、製造、輸送、貯蔵、利用という各段階で構成されますが、中でも貯蔵は、製造と利用の間の時間的・空間的なギャップを埋め、需要変動への対応やサプライチェーン全体の安定化に不可欠な要素です。
特に、再生可能エネルギー由来の変動性電源と連携した水素製造や、遠距離からの水素輸入に際しては、季節的な需給変動や輸送タイミングと最終需要の不整合に対応するための「長期大規模貯蔵」の役割が極めて重要になります。本稿では、水素経済の安定供給を支える長期大規模貯蔵技術の現状、政策担当者が注視すべき政策的課題、そして今後の展望について論じます。
長期大規模水素貯蔵が必要とされる背景
水素の大量かつ長期的な貯蔵は、主に以下の目的で必要とされます。
- 変動性再生可能エネルギーの活用: 再生可能エネルギーによる電力は気候条件に左右され変動します。余剰電力を利用して製造した水素を長期貯蔵することで、電力需要の低い時期に製造し、需要の高い時期に利用することが可能となり、再生可能エネルギーの最大限の活用を促進します。
- 季節的な需要変動への対応: 暖房需要の高い冬期など、季節によってエネルギー需要が大きく変動する分野において、事前に製造・貯蔵した水素を供給することで、安定供給を図ります。
- 遠距離からの輸送・輸入対応: 海外で製造された水素を船舶などで大量輸送する場合、輸送スケジュールと国内の需要発生タイミングとの間にずれが生じる可能性があります。大量の水素を国内で受け入れ、需要地へ安定的に供給するためには、大規模な貯蔵設備が不可欠となります。
- エネルギーシステム全体のレジリエンス向上: 自然災害や地政学的リスクなどによる供給途絶リスクに対し、大規模な戦略的貯蔵はエネルギーセキュリティを向上させる上で重要な役割を果たします。
これらのニーズを満たすためには、数千トンから数十万トンといった極めて大規模な水素を、数週間から数ヶ月、場合によってはそれ以上の期間にわたって安全かつ経済的に貯蔵できる技術が必要となります。
主要な長期大規模水素貯蔵技術の現状
長期大規模な水素貯蔵技術には複数の選択肢があり、それぞれ技術成熟度、コスト、適用可能な場所などに特徴があります。
1. 地下貯蔵
- 塩水空洞貯蔵 (Salt Caverns): 地下の岩塩層に人工的に空洞を作り、高圧の水素を貯蔵する方式です。既存の天然ガス貯蔵で実績があり、貯蔵容量が非常に大きく、サイクル寿命も長いことから、長期・大規模貯蔵の有力候補とされています。米国や英国など、既に実証・運用事例が存在します。ただし、適した地質構造(厚い岩塩層)が必要です。
- 帯水層貯蔵 (Aquifer Storage): 地下の多孔質岩盤(砂岩など)の帯水層に水素を圧入して貯蔵する方式です。広範な地域に適用できる可能性がありますが、水素の回収率、微生物による影響、地下水への影響などの技術的・環境的な課題が残されています。実証段階の技術と認識されています。
- 枯渇ガス田貯蔵 (Depleted Gas Fields): 枯渇した天然ガス田を転用して水素を貯蔵する方式です。既存インフラの一部を活用できる可能性がありますが、改修コスト、貯蔵層の健全性、水素の回収率、残留ガスとの混合などの課題があります。枯渇ガス田は塩水空洞ほど貯蔵容量や回収効率が高くない場合が多いとされます。
地下貯蔵は、他の方式に比べて単位体積あたりの貯蔵コストが低い可能性がありますが、立地場所が限定される点や、地下環境への影響評価、長期的な安全性モニタリングといった課題があります。
2. 地上貯蔵
- 液化水素貯蔵 (Liquid Hydrogen Storage): 水素を-253℃の極低温で液化し、断熱されたタンクに貯蔵する方式です。エネルギー密度が高く、輸送に適している一方、液化には多くのエネルギーを消費し、貯蔵中の「ボイルオフ」(熱侵入による気化)が発生します。大規模な地上タンクでの貯蔵技術は確立されつつありますが、非常に高い断熱技術と安全対策が必要です。容量には一定の限界があります。
- 圧縮水素貯蔵 (Compressed Hydrogen Storage): 高圧ガスとして貯蔵する方式です。地上に設置される大規模なタンク(例えば数千m³級)に数十〜数百気圧で貯蔵する技術開発が進められています。圧力が高くなるほどタンクの構造が複雑になり、製造コストが増加します。非常に大規模な容量を地上に確保するには広大な敷地が必要となる場合があります。
- 液体有機ハイドライド (LOHC: Liquid Organic Hydrogen Carrier): 水素を特定の有機化合物(例: トルエン→メチルシクロヘキサン)に化学的に結合させ、常温・常圧で液体として貯蔵・輸送する方式です。既存の石油化学プラントやタンカー、パイプラインインフラの一部活用が期待できます。脱水素プロセスにエネルギーが必要ですが、安全性が高く、既存インフラとの親和性が高い点が特徴です。貯蔵容量は他の方式に劣る場合があり、キャリア材の循環システム構築が必要です。
これらの地上貯蔵技術は、立地の柔軟性がある一方、地下貯蔵に比べて一般的に単位エネルギーあたりの建設・運用コストが高い傾向にあります。
長期大規模貯蔵に関する政策的課題
水素の長期大規模貯蔵を実現し、水素経済を支える基盤として機能させるためには、多くの政策的課題を克服する必要があります。
- 安全性評価と規制の整備: 大規模な水素貯蔵は、従来のエネルギー貯蔵とは異なる安全性の課題を伴います。特に地下貯蔵については、地質学的リスク、水素漏洩による地下環境への影響、地震への耐性など、新たな安全基準や評価手法の確立が必要です。地上の液化水素タンクや高圧タンクについても、既存のガス保安規制を水素特性に合わせて見直し、大規模化に対応した新たな基準やガイドラインの策定が求められます。許認可プロセスの明確化と合理化も重要な課題です。
- コスト低減と経済性の確立: 現在、長期大規模貯蔵のコストは、水素サプライチェーン全体の経済性を左右する重要な要素となっています。技術開発による建設コスト、運用コスト(特に地下貯蔵における圧入・放出エネルギーや地上貯蔵におけるボイルオフ対策、LOHCにおける水素化・脱水素エネルギー)、メンテナンスコストなどの低減が不可欠です。初期投資の大きさを踏まえ、政府による補助金や税制優遇、リスク分担メカニズムなどの政策的支援が検討されるべきです。
- インフラ整備との連携: 大規模貯蔵設備は、水素製造拠点、輸入拠点、そして主要な需要地を結ぶパイプラインや輸送ネットワークとの連携が必須です。貯蔵拠点の選定は、地理的条件に加え、既存インフラの活用可能性や新規インフラ建設の容易さなどを考慮する必要があります。インフラ整備全体のマスタープランにおいて、長期大規模貯蔵がどのように位置づけられ、他の構成要素とどのように連携するかを具体的に示す政策が必要です。
- 社会受容性の向上: 特に地下貯蔵については、地域の環境や安全に対する懸念が生じる可能性があります。透明性の高い情報公開、住民との対話、安全性に関する科学的根拠に基づいた丁寧な説明など、地域社会の理解と信頼を得るための政策的アプローチが重要となります。
- 国際協力と標準化: 長期大規模貯蔵は、国際的な水素サプライチェーンを構築する上でも鍵となります。技術基準、安全基準、運用プロトコルなどの国際標準化を推進し、国際的な相互承認や協力体制を築くことが、グローバルな水素取引を円滑化するために重要です。
主要国における長期大規模貯蔵への政策的取り組み
欧州、北米、オーストラリアなどの主要国・地域では、既に長期大規模水素貯蔵のポテンシャルに着目し、政策的な支援や実証プロジェクトが進められています。
例えば、欧州では、水素バリューチェーン全体への大規模投資計画「Hydrogen IPCEI (Important Projects of Common European Interest)」の中で、貯蔵に関するプロジェクトも多数採択されています。地下貯蔵(塩水空洞、枯渇ガス田など)のポテンシャル評価や実証が進められており、法規制や安全基準の整備も議論されています。
米国では、エネルギー省(DOE)が主導する水素関連プロジェクトにおいて、地下貯蔵技術の研究開発や実証が支援されています。既存の天然ガスインフラを活用した水素貯蔵の可能性も探られています。
オーストラリアでは、豊富な再生可能エネルギー資源を活用したグリーン水素製造・輸出を目指しており、大規模な水素貯蔵(液化水素、LOHC、地下貯蔵など)がサプライチェーン構築の重要な要素として位置づけられています。政府による資金援助や規制緩和の検討が行われています。
これらの国際的な動向は、日本の政策立案にとっても重要な示唆を与えます。他国の先進的な規制整備の取り組みや、コスト低減に向けた支援策、社会受容性向上のためのアプローチなどを参考に、日本の地理的・社会的条件に合わせた最適な政策を設計していく必要があります。
今後の展望と政策立案への示唆
長期大規模水素貯蔵技術は、現在も技術開発や実証が進められている段階ですが、水素経済の本格的な拡大には不可欠な基盤技術です。今後、これらの技術が実用化・普及していくためには、以下のような政策的アプローチが重要になると考えられます。
- 技術成熟度に応じた段階的な政策支援: 技術開発段階にある帯水層貯蔵や新たなLOHCキャリアの開発には研究開発支援、比較的成熟度の高い塩水空洞貯蔵や液化水素貯蔵には実証・早期導入支援など、技術段階に応じたメリハリのある政策が必要です。
- 規制・標準化の迅速な整備: 技術開発の進展に合わせ、安全性評価手法、建設・運用基準、環境影響評価に関する規制やガイドラインをタイムリーに整備することが、事業者の予見可能性を高め、投資判断を促進します。国際標準化への貢献も積極的に行う必要があります。
- インフラ整備計画との統合: 国全体のエネルギーインフラマスタープランの中で、長期大規模貯蔵を明確に位置づけ、水素パイプライン、水素港湾、製造拠点など他のインフラ要素との連携を考慮した計画を策定します。
- コスト低減に向けた継続的な支援と市場メカニズムの活用: 初期投資の負担軽減に加え、製造・輸送・貯蔵を合わせたサプライチェーン全体のコスト最適化を目指す政策、さらには将来的な市場メカニズムによるコスト競争力向上を促す設計が重要となります。
- 多角的な情報発信と対話による社会理解の促進: 安全性や環境性に関する正確な情報を、科学的根拠に基づいて分かりやすく発信し、地域住民や関係者との継続的な対話を通じて、社会的な受容性を高める努力を続ける必要があります。
まとめ
水素の長期大規模貯蔵は、再生可能エネルギーの最大限活用、季節的な需給調整、遠距離からの安定供給、エネルギーセキュリティ向上といった、水素経済の安定稼働に不可欠な機能を提供します。地下貯蔵(塩水空洞など)や地上貯蔵(液化水素、LOHCなど)といった様々な技術開発が進められており、それぞれに利点と課題が存在します。
これらの技術を社会に実装するためには、安全性評価と規制整備、コスト低減、関連インフラとの連携、社会受容性の向上といった多岐にわたる政策的課題への対応が求められます。主要国の政策動向や実証事例から学びつつ、日本の地理的・技術的特性を踏まえた最適な政策を、技術開発の進展と並行して迅速に立案・実行していくことが、水素経済の安定供給と拡大を実現する上で極めて重要であると考えられます。