主要国の水素政策ツール比較分析:導入加速に向けた政策設計の論点
導入:多様化する水素政策ツールと国際比較の意義
世界各国がカーボンニュートラル実現に向けた重要なエネルギーキャリアとして水素に注目する中、その導入を加速するための政策ツールは多様化しています。製造、輸送、貯蔵、利用に至るバリューチェーン全体にわたるコスト低減や需要創出、技術開発を促すため、補助金、税制優遇、クレジット制度、規制・基準設定など、様々な政策手段が講じられています。
これらの政策ツールは、各国のエネルギー事情、産業構造、財政状況、政策目標に応じて独自に設計されていますが、その有効性や市場への影響は様々です。政策担当者にとっては、主要国がどのようなツールを採用し、それがどのように機能しているのか、またどのような課題に直面しているのかを理解することは、自国の政策設計や見直しを行う上で不可欠な情報となります。
本稿では、主要国における代表的な水素政策ツールを類型化し、その特徴と導入事例を比較分析することで、効果的な水素導入加速に向けた政策設計の論点を探ります。
主要な水素政策ツールの類型と特徴
水素導入を促進するために各国で採用されている政策ツールは、主に以下のカテゴリーに分類できます。
1. 財政支援策 (Financial Support)
初期投資や運転コストの低減を目的とした直接的・間接的な資金提供です。 * 補助金・助成金: 水素製造設備、インフラ、車両購入などに対する直接的な資金援助。プロジェクトの初期リスクを低減し、導入障壁を下げる効果が期待されます。欧州諸国や日本などで広範に活用されています。 * 税制優遇・税額控除: 水素関連投資や生産、消費にかかる税負担を軽減する措置。米国のインフレ削減法(IRA)におけるクリーン水素生産税額控除(45V)などが代表的であり、長期的な予見可能性を提供しやすいという特徴があります。
2. 市場メカニズム・インセンティブ (Market Mechanisms / Incentives)
低炭素水素の価値を市場で評価し、需要創出やコストプレミアムの吸収を促す仕組みです。 * クレジット制度・認証制度: 水素の製造方法やサプライチェーンにおけるCO2排出量を評価・認証し、その環境価値をクレジットとして取引可能にする制度や、低炭素水素の利用を促すインセンティブ。これにより、製造コストが高い低炭素水素と既存燃料との価格差(グリーンプレミアム)を補填し、市場での競争力を高めることを目指します。米国、欧州、オーストラリアなどが導入を進めています。 * 炭素価格メカニズム: 炭素税や排出量取引制度(ETS)における排出枠価格が、高炭素燃料に対するコスト負担を増加させ、相対的に低炭素水素の競争力を高める効果を持つ場合があります。
3. 規制・基準・義務化 (Regulations / Standards / Mandates)
特定の技術基準、安全基準、あるいは特定のセクターにおける水素利用目標を設定するものです。 * 技術基準・安全規制: 水素設備の設置、運用、輸送等に関する安全基準や技術要件を定めることで、産業の信頼性を高め、円滑な導入・普及を支えます。国際標準化との連携も重要です。 * 義務化・目標設定: 特定の産業(例:運輸、製鉄)や公共部門に対して、一定割合の水素利用を義務付けたり、導入目標を設定したりすることで、強制的な需要創出を図るものです。
4. 公共調達 (Public Procurement)
政府や地方自治体などが率先して水素関連製品・サービスを調達することで、初期需要を創出し、サプライヤーに安定的な市場シグナルを送るものです。バスやごみ収集車などの公用車への燃料電池システムの導入などが事例として挙げられます。
主要国の政策ツール導入事例とその特徴
主要国は、上記の政策ツールを組み合わせて水素戦略を推進しています。それぞれの国が置かれた状況に基づき、特徴的な政策アプローチを採用しています。
- 米国: IRAによるクリーン水素生産税額控除(45V)が強力なインセンティブとして注目されています。これは生産量に応じて税額控除を付与するもので、運転コスト低減に直接的に寄与し、大規模な生産プロジェクトを促す効果が期待されています。また、地域水素ハブプログラムによるインフラ整備への大規模投資も進められています。
- 欧州連合 (EU) および加盟国: EU全体としては、再生可能エネルギー指令(RED III)における再生可能エネルギー由来の燃料(RFNBOs)に関する目標設定や、ETS収益を活用したイノベーション基金による大規模プロジェクト支援などが行われています。ドイツやフランスなど各加盟国も、独自の補助金プログラムや産業向け脱炭素支援、輸送インフラ整備計画などを展開しており、多様なアプローチが見られます。特に、国境を越えた水素パイプライン網の整備計画など、インフラ連携への政策的な重点が置かれている場合があります。
- オーストラリア: 広大な国土と豊富な再生可能エネルギー資源を活かし、輸出志向のグリーン水素生産を目指しています。連邦政府による産業向け脱炭素ファンドや州政府によるインフラ支援、水素認証制度の導入などが進められています。
- 中国: 大規模な製造能力と国内市場を背景に、燃料電池車普及に向けた補助金や実証プロジェクト支援、地域レベルでのインフラ整備計画が積極的に展開されています。
これらの事例から示唆されるのは、単一のツールだけでなく、財政支援、市場メカニズム、規制といった異なるカテゴリーのツールを、水素バリューチェーンの異なる段階や異なるプレイヤーのインセンティブに合わせて組み合わせることが重要であるという点です。例えば、初期投資に対する補助金はプロジェクト立ち上げを促進しますが、運転コストの低減には税制優遇やクレジット制度が有効と考えられます。また、需要側へのインセンティブと供給側へのインセンティブをバランスさせることも政策効果を高める上で重要となります。
政策ツールの有効性と政策設計における論点
各国の政策ツールの導入状況を比較すると、いくつかの共通の論点や課題が見えてきます。
- 政策の予見可能性と安定性: 大規模な水素プロジェクトは長期的な投資回収が見込まれるため、政策の安定性や将来にわたる予見可能性が投資判断に大きく影響します。税制優遇措置のように、一定期間にわたって効果が保証されるツールは、この点で優位性を持つと考えられます。
- コスト効率性: 限られた財源の中で最大の効果を引き出すためには、政策ツールのコスト効率性を評価する必要があります。直接的な補助金は即効性がありますが、市場メカニズムを活用した方が、長期的に見てより効率的な資源配分を促す可能性が示唆されます。
- 技術・経路の中立性: 特定の技術や水素製造経路のみを過度に優遇する政策は、イノベーションを阻害したり、将来的な技術革新への適応を難しくしたりするリスクがあります。低炭素性の評価に基づいた中立的なインセンティブ設計が望ましいと考えられます。
- 国際連携と調和: 水素は国際的な貿易が見込まれるため、各国の政策ツール、特に低炭素性評価方法や認証制度における国際的な調和は、円滑な国際サプライチェーン構築に不可欠です。政策インセンティブ設計においても、国際競争や貿易摩擦への影響を考慮する必要があります。
- バリューチェーン全体への視点: 製造、輸送、貯蔵、利用といったバリューチェーンの各段階にはそれぞれ異なるボトルネックが存在します。政策ツールは、特定の段階に偏るのではなく、バリューチェーン全体を見通した上で、最も効果的なボトルネック解消に資するように設計される必要があります。
結論:効果的な政策パッケージ構築に向けて
主要国の水素政策ツールに関する比較分析から、水素導入を加速するためには、単なる補助金だけに頼るのではなく、税制優遇、クレジット制度、規制・基準設定といった多様なツールを、各国の状況や目標、バリューチェーンの特性に合わせて戦略的に組み合わせることが重要であるという示唆が得られます。
特に、政策の予見可能性を高める仕組み、低炭素性に基づく技術中立的なインセンティブ、そして国際的な調和といった点は、効果的な政策パッケージを設計する上で注視すべき論点です。各国の成功事例や課題を詳細に分析し、その知見を国内の政策立案に活かしていくことが、日本の水素経済構築を加速するために不可欠であると考えられます。今後の国際動向や政策評価の結果を継続的に注視し、政策の柔軟な見直しを図ることが求められます。