産業部門における水素利用拡大を加速する政策インセンティブ:国内外の事例分析と政策形成への示唆
導入:産業部門における水素利用拡大の重要性と政策インセンティブの役割
産業部門は、エネルギー消費量が大きく、かつプロセスからのCO2排出が多い分野であり、カーボンニュートラル実現に向けた水素導入の重要なターゲットとなります。特に、製鉄、化学、セメントなどの基幹産業においては、高温熱プロセスや原料としての利用など、電化が難しい領域での水素活用が期待されています。しかし、現状では水素のコストや供給インフラの課題から、産業部門での大規模な水素導入は限定的です。
この課題を克服し、産業部門での水素利用を加速するためには、政府による効果的な政策インセンティブが不可欠です。本稿では、産業部門における水素利用拡大に向けた国内外の主要な政策インセンティブ事例を分析し、日本の今後の政策形成に資する示唆を提供することを目的とします。
産業部門における水素利用の現状と課題
現在、産業部門で利用されている水素の多くは化石燃料由来の「グレー水素」であり、主に石油精製やアンモニア製造などの限られた用途で使用されています。これを、製造過程でCO2を排出しない「グリーン水素」や、CCUS(CO2回収・貯留・利用)と組み合わせた「ブルー水素」に置き換え、さらに新たな用途(例: 直接製鉄法、化学製品原料、工業炉燃料)へ拡大していく必要があります。
産業部門における水素導入の主な課題は以下の通りです。
- コスト競争力: CO2フリー水素は、現状では化石燃料や既存のグレー水素と比較して製造・輸送コストが高いです。
- 供給インフラ: 大量の水素を安定的に、需要地に供給するためのインフラ(パイプライン、貯蔵施設など)が未整備です。
- 技術開発: 高効率な水素利用技術や、既存設備からの転換・改修に関する技術開発および実証が必要です。
- 規制・標準: 水素の安全利用に関する規制や、国際的な標準化への対応が求められます。
これらの課題に対し、各国政府は様々な政策インセンティブを通じて対応を図っています。
産業部門向け政策インセンティブのタイプ
産業部門における水素利用拡大に向けた政策インセンティブは、大きく以下のタイプに分類できます。
- 財政的支援:
- 補助金・助成金: 水素製造・輸送・貯蔵設備、または水素利用設備の導入や改修に対する直接的な資金支援。
- 税制優遇: 水素関連投資や、CO2排出削減に貢献する水素利用に対する税負担の軽減。
- 低利融資・保証: 水素関連事業への投資を促進するための有利な資金提供。
- 炭素価格付け: 炭素税や排出量取引制度により、化石燃料利用のコストを相対的に高め、水素の競争力を向上させる。
- 需要創出・市場メカニズム:
- 買取保証・差金決済契約(CfD): 水素生産者に対し、市場価格と目標価格の差額を政府が補填することで、長期的な収益の安定性を保証し、投資リスクを低減します。
- クォータ・義務付け: 特定の産業や用途に対し、一定割合以上の水素利用を義務付ける、または推奨する。
- グリーン調達: 政府や公共機関が率先してグリーン水素由来の製品などを調達する。
- 規制・標準・認証:
- 安全規制の整備・合理化: 水素利用に関する安全基準を明確化し、普及を妨げる過剰な規制を緩和する。
- CO2排出量算定・認証制度: CO2フリー水素の定義や、サプライチェーン全体での排出量を算定・認証する仕組みを構築し、差別化と市場形成を支援する。
- 国際標準化への貢献: 国際的な水素関連の標準策定に積極的に関与する。
- 研究開発支援:
- 技術開発プロジェクトへの資金提供: 水素製造、貯蔵、輸送、利用に関する革新的な技術開発を促進する。
- 実証プロジェクト支援: 大規模な産業実証を通じて、技術的・経済的実現可能性を検証する。
国内外の事例分析
欧州連合 (EU)
EUは「欧州水素戦略」に基づき、産業部門を含む広範な分野での水素導入を推進しています。
- 財政的支援:
- Innovation Fund: 革新的な低炭素技術プロジェクト(水素関連含む)に対し、EU排出量取引制度(EU ETS)の収入を原資とした大規模な助成金を提供しています。産業プロセスにおける水素利用転換も対象となります。
- IPCEI (Important Projects of Common European Interest): 加盟国が共同で、水素バリューチェーン全体の技術開発や実証プロジェクトに対し、国家補助規則の枠を超えた大規模な公的資金支援を認めています。産業利用関連プロジェクトも多数含まれています。
- 需要創出・市場メカニズム:
- Carbon Contracts for Difference (CCfD): 産業部門が化石燃料から水素などの低炭素技術に転換する際の追加費用を政府が補填する仕組みとして検討・導入が進められています。これにより、炭素価格が低い場合でも投資回収の見通しを立てやすくします。
- 規制・標準・認証:
- 再生可能エネルギー指令 (RED II/III): 産業部門での再生可能エネルギー利用目標の中に、再生可能な燃料(再生可能水素含む)の利用促進が盛り込まれています。また、再生可能水素の定義や認証に関する枠組みを定めています。
米国
米国は「インフラ投資・雇用法」や「インフレ削減法 (IRA)」を通じて、大規模な水素関連投資と税制優遇を実施しています。
- 財政的支援:
- クリーン水素製造税額控除 (45V): IRAにより導入された最も強力なインセンティブの一つです。製造過程でのライフサイクルGHG排出量に応じて、製造された水素1kgあたり最大3米ドルの税額控除が得られます。これにより、グリーン水素の製造コストを大幅に削減し、産業部門を含む様々な需要家にとっての経済性を高めることが期待されます。
- 水素ハブプログラム: インフラ投資・雇用法に基づき、国内の特定の地域で水素製造、流通、最終利用を含むハブを構築するために70億米ドルを助成します。産業クラスターでの水素利用促進もハブの重要な要素となります。
- 需要創出:
- クリーン水素需要促進プログラム: IRAに基づき、特定の産業部門でのクリーン水素利用を促進するためのプログラムが検討されています。
日本
日本も「水素基本戦略」に基づき、産業部門での水素利用拡大を重視しており、様々な政策措置を講じています。
- 財政的支援:
- グリーンイノベーション基金: 水素関連技術開発や実証プロジェクトに対し、大規模な資金支援を行っています。製鉄分野における水素還元製鉄技術開発や、化学プラント等での水素利用技術開発などが対象となっています。
- 補助金制度: 各省庁が、CO2排出削減に資する設備投資や技術実証に対する補助事業を実施しており、産業部門での水素関連設備導入もその対象となり得ます。
- 炭素に対する賦課金・税: 化石燃料利用に対する賦課金や税制を通じて、相対的に水素の競争力を高めるインセンティブを検討しています。
- 需要創出:
- 大規模な需要創出に向けた支援: 政府は、商用化を見据えた大規模な水素導入プロジェクト(例: 大規模アンモニア燃料混焼、水素還元製鉄など)に対し、供給側と需要側双方への支援をパッケージで行う方針を示しています。
- 規制・標準:
- 安全規制の見直し: 産業保安規制など、水素の大量利用を想定した安全規制の見直しや合理化が進められています。
事例分析から得られる示唆
上記の国内外事例から、産業部門における水素利用拡大に向けた政策インセンティブに関して、以下の示唆が得られます。
- コストギャップの填補が最優先: 現在のCO2フリー水素と化石燃料のコスト差は大きく、これを埋めるための財政的支援(補助金、税額控除、CfDなど)は初期段階で最も効果的なインセンティブとなり得ます。米国の45Vのような製造コストに対する直接的な税額控除は、供給側インセンティブとしてシンプルかつ強力な効果が期待されます。
- 需要側と供給側の一体的な支援: 水素供給インフラの整備と、産業部門での水素利用設備の導入・改修は同時に進める必要があります。供給側への支援に加え、需要家が安心して長期的な投資判断を行えるような需要創出策(買取保証、CCfDなど)や設備投資支援が重要です。
- 特定の産業・用途への重点支援: 製鉄、化学、セメントなど、CO2削減が困難な産業や、水素利用のポテンシャルが高い用途に対し、集中的な支援を行うことで、早期の成功事例を創出し、他への波及効果を狙うアプローチも有効と考えられます。IPCEIやグリーンイノベーション基金のような大規模プロジェクト支援はその一例です。
- 規制・標準の整備と国際連携: 安全かつ円滑な水素導入のためには、既存の規制体系の見直しや、新たな用途に合わせた標準整備が不可欠です。また、国際的な水素サプライチェーン構築を見据え、認証制度や計測方法などの国際標準化議論への積極的な参画が重要です。
- 予見可能性の向上: 産業界が大規模な設備投資を判断するためには、政策の方向性、支援の継続性、将来的なコスト見通しなどに高い予見可能性が必要です。長期的な目標設定と、それを達成するためのロードマップ、そして一貫性のある政策枠組みを示すことが重要です。
結論:日本の産業部門における水素政策の方向性
日本の産業部門における水素利用拡大は、2050年カーボンニュートラル目標達成に向けた喫緊の課題です。欧米諸国の事例からも明らかなように、強力かつ多様な政策インセンティブがその実現には不可欠となります。
今後の日本の政策形成においては、以下の点が考慮されるべきと考えられます。
- コストギャップ填補のための効果的な財政支援の検討: 米国の45Vのような直接的な製造コスト支援や、欧州で議論されているCCfDのような需要側リスク低減策など、国内外のベストプラクティスを参考に、日本の産業構造やエネルギー事情に合った最も効果的な財政支援策を検討・導入すること。
- 産業部門の具体的なニーズを踏まえた支援策の設計: 製鉄、化学、セメントなど、それぞれの産業や用途が抱える技術的・経済的課題を詳細に分析し、設備転換支援、技術実証支援、供給インフラ整備支援などをパッケージとして提供すること。
- 長期的な政策の予見可能性の提示: 水素の価格目標、導入目標、支援期間などを明確に示すことで、企業の投資判断を後押しすること。
- 国際的な政策連携と標準化への貢献: 主要国との政策協調や、水素のトレーサビリティ、認証、安全基準などの国際標準化議論を主導することで、国際的な水素サプライチェーン構築と国内産業の国際競争力強化を図ること。
産業部門における水素利用拡大は容易な道のりではありませんが、戦略的かつ大胆な政策インセンティブの設計と実行により、その実現を加速し、日本のエネルギー転換と産業競争力強化に繋げることが期待されます。